制作に携わった芸術家
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「トリノ=ミラノ時祷書」の記事における「制作に携わった芸術家」の解説
フランス人美術史家ポール・デュリューは、焼失する2年前の1902年に、写真も掲載した『トリノ時祷書』のモノグラフを出版した。デュリューは、トリノとミラノの時祷書が同じ書物から分割されたものであることに気がついた最初の人物で、描かれているミニアチュールとファン・エイク兄弟を関連付けた最初の人物でもある。美術史家ジョルジュ・ユラン・ド・ルーも1911年に『ミラノ時祷書』に関する著作を発表しており、このなかでミニアチュールを描いた画家を年代順に「画家 A」から「画家 K」までに分類した。失われた『トリノ時祷書』の作者には一部異論が出ているものの、このユラン・ド・ルーが行った画家の分類は、現在でもほぼ定説となっている。しかしながら、「画家 A」から「画家 K」が、実際にどの画家を指すのかについては大きく意見が分かれており、とくに「画家 J」のミニアチュールについては、一人ではなく複数の画家の作品ではないかとも言われている。時祷書が分割される以前の「画家 A」から「画家 E」まではフランスの画家、分割されて以降の「画家 G」から「画家 K」はネーデルラントの画家とされ、「画家 F」については研究者によって分類が分かれている 。 『トリノ=ミラノ時祷書』のなかでは、「画家 G」が描いたミニアチュールがもっとも優れた作品と見なされている。ユラン・ド・ルーは「画家 G」のミニアチュールについて、「書物の装飾としては、それまでに見られないほどの素晴らしい作品で、美術史上の見地からしても当時最高の芸術品である。一目見ただけで、現代の絵画にまで及ぶ重要性が理解できる。・・・古より、絵画は空間と光の表現を追求し続けてきたのである」としている。ユラン・ド・ルーは「画家 G」を、当時の多くの美術史家と同様に、『ヘントの祭壇画』の主制作者とされていたフーベルト・ファン・エイクだと考えており、「画家 G」と比較すると抑制的表現だが作風が似ている「画家 H」は、フーベルトの弟ヤン・ファン・エイクだと考えていた。その後、美術史家の見解が変遷し、現在では「画家 G」も『ヘントの祭壇画』の主制作者もヤン・ファン・エイクだとされることが多くなっており、マックス・ヤーコプ・フリートレンダー (en:Max Jakob Friedländer)、アン・ヴァン・ビューレン、アルベール・シャトレ (en:Albert Châtelet) といった美術史家たちもこの説を支持している。しかしながら現代の美術史家のなかには、「画家 G」の作風はファン・エイク兄弟よりも革新性が見られる箇所があるとして、「画家 G」がこの二人に近しい芸術家だった可能性はあるが、ファン・エイク兄弟ではないという説をとるものもいる。現在では「画家 G」が手がけたミニアチュールは、様々な観点から1417年から1430年代終わりに描かれたと考えられている。 「画家 I」から「画家 K」の作品は、どれもファン・エイク風の作風で描かれている。これは、おそらく「画家 G」の下書きをもとにして他の画家が描いたためではないかと考えられており、このような絵画制作は当時のヤン・ファン・エイクの工房でよく行われていた手法だった。フーベルト・ファン・エイクは1426年に、ヤン・ファン・エイクは1441年に死去しているが、その後も「画家 I」から「画家 K」によるミニアチュールの制作は続けられている。また、画家の同定や作風の比較と同じく、それぞれの作品にこめられた意味や象徴も研究対象となっている。1430年代以降『トリノ=ミラノ時祷書』がブルッヘに存在していたことはほぼ確実視されており、当時ブルッヘで制作された装飾写本や絵画作品との比較解析によって、この研究が進められている。画家の同定については非常に多くの説があり、名前が伝わっていないために特定の作品にちなんで呼ばれる画家だとされることが多い。「画家 K」は『トリノ=ミラノ時祷書』制作の最後期である1450年ごろにミニアチュールを描いた画家で、もっとも平凡な画家だと見なされている。著名な画家の工房関係者ではないと考えられており、「ランガタク時祷書の画家」(en:Master of the Llangattock Hours) と呼ばれている画家と同一人物、あるいは近親者とされることが多い。
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