判決理由および「傍論」に関する園部発言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 16:46 UTC 版)
「外国人参政権裁判」の記事における「判決理由および「傍論」に関する園部発言」の解説
この判決をした第三小法廷に最高裁判所裁判官として所属し、傍論作成に関与した園部逸夫は、2007年にこの問題に関し以下の発言をしている。 詳細は「園部逸夫#2007年の論文」を参照 園部は、調査官解説へのコメントとして、本判決理由は、解説が要約しているように(1)第一段落、(2)第二段落及び(3)第三段落の三つからなり、本判決の判例部分は(3)第三段落としている。 また、2007年には、 「判例集は、第三の部分を判例とし、第一と第二は判例の先例法理を導くための理由付けに過ぎない。第一、第二とも裁判官全員一致の理由であるが、先例法理ではない。第一を先例法理としたり第二を傍論又は少数意見としたり、あるいは第二を重視したりするのは、主観的な批評に過ぎず、判例の評価という点では、法の世界から離れた俗論である。」 と述べて、「判決の理由」について述べた部分のみをとりだして「傍論」として重視するのは「主観的な批評」であり「俗論」として痛烈に批判した。 しかし、園部によれば、参政権付与運動側の主張する根拠である「傍論」における解釈は要請説的解釈であり、最高裁判所の立場ではなく、そもそも判例と傍論を区別するという法理は日本の制定法主義の中に存在しないということである。 この見方からすれば、菅首相の「傍論を最大限尊重する」といった発言や、元弁護士でもある枝野大臣の「傍論といえども最高裁の見解」「行政府で(傍論と)異なる見解をとることは憲法に照らして許されない」といった発言は、そもそも許容説的見解でなく、要請説的立場であるため、主観的な批評または俗論であり、したがってなんら法理的な根拠を持っていないとされる。園部は、「傍論の政治的利用」についても批判している。つまり、一般的に傍論とされる部分において部分的許容説を取っているからと言って、ただちに、立法的解決を要請されるものではないということである。 また園部は、第二の判決理由(いわゆる「傍論」)について、そもそも不要であったとし、この判決の将来における見直しについて、最高裁大法廷で判決を見直すことができるし、判決は金科玉条で一切動かせないわけではないとした。 また、1999年朝日新聞において自身が「傍論」として論じたことについて、2010年2月、「これは言葉が悪かった」とした。さらに、続く記者からの「これでみんなが傍論と言ってるのでは」との問に対して、「“傍論”なんて言った覚えない」とし、「傍論」を「政治的に利用すること」について注意を喚起したうえで批判した。
※この「判決理由および「傍論」に関する園部発言」の解説は、「外国人参政権裁判」の解説の一部です。
「判決理由および「傍論」に関する園部発言」を含む「外国人参政権裁判」の記事については、「外国人参政権裁判」の概要を参照ください。
- 判決理由および「傍論」に関する園部発言のページへのリンク