再修築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 20:18 UTC 版)
1295年11月には、イングランドが町を再強化し始めた。市壁の再建が最も必要であり、1195ポンド(当初の市壁建設のほぼ半分の費用)が経費に充てられ、予定より2か月早く事業は完了した。次いで焦点が城に移ると、1292年に中止した作業の完遂にあたった。1295年にひとまず反乱が鎮圧されると、エドワードはアングルシー島にビューマリス城の建設を開始した。その作業はマスター・ジェイムズにより監督され、結果として、ウォルター・オブ・ヘレフォード(英語版)が建設の新たな段階の石工棟梁として引き継いでいた。1301年末頃までに、さらに4500ポンドが作業に費やされ、作業の中心は北の壁と塔にあった。 1301年11月から1304年9月にかけての収支記録は見当たらず、おそらくはスコットランドに対するイングランドの戦争を補うために労働力が北に移行した間に作業の中断があったものとされる。記録では、ウォルター・オブ・ヘレフォードはカーナーヴォンを離れて1300年10月にはカーライルにいて、カーナーヴォンで建設が再開される1304年の秋まで、彼はスコットランド戦争に専念していた。ウォルターが1309年に亡くなると、その直属の部下ヘンリー・ド・エラートン (Henry de Ellerton〈Henry of Ellerton〉) が石工棟梁の責務を引き継いでいる。1323年には現在の様子に似た状態となったといわれるが、建設は1330年まで一定の割合で継続された。 1283年から1330年に収支報告が終了するまで、カーナーヴォンの城と市壁に2万5000ポンドが費やされた。エドワード1世のウェールズ征服による築城においては、1277年から1304年までに8万ポンド、同じく1277年から1329年までに9万5000ポンドの費用を要している。そういった当時における莫大な金額はまた、12世紀後半から13世紀初頭の極めて価値が高くかつ壮大な要塞であったドーヴァー城やノルマンディーのガイヤール城(英語版)などの城への出費を妨げた。後のカーナーヴォンの増築は大したものでなく、城跡は大体がエドワード時代からのものである。その出費額にも関わらず、城に計画されたものの多くが完遂されることはなかった。王の門(King's Gate、町からの入口)と王妃の門(Queen's Gate、東〈南東〉からの入口)の背後は未完成のままであり、城郭の内部の土台部分が、作業が続けられれば建物を擁したはずの痕跡を見せている。
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