内政・文化
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日明貿易は博多商人と連携し、堺商人と組んだ細川氏と競合しつつ遣明船を派遣した。また対朝貿易にも応仁の乱以降力を入れた。これらで得た莫大な利益は軍費などに充てられた。また応仁の乱後は領国経営にも意を注ぎ、社会秩序の確立に努めた。分国法として知られる大内家壁書の多くはこの時期に作られ始めたという。 和歌・連歌を好み、家中にも広めた。一条兼良・正広・宗祇・三条西実隆ら多くの歌人・連歌師と交流する。荒廃した京から公家、僧侶、雪舟などの芸術家を山口に招き、文化の興隆に尽力した。文明12年には宗祇を招き、連歌会を行なっている。さらに、私家集『拾塵和歌集』を編纂、自作の歌1100余首を残すとともに、准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』も後援し、そのなかには自らの歌も多く撰ばれている。 大内文化の代表的な庭園と言われる、常栄寺庭園は、政弘が雪舟に築庭させたと伝えられている。 当時知られ始めた能楽についても高い関心を示し、文明15年(1483年)に猿楽座宝生が大内氏館で興行・指導を行った記録がある。 大内氏は多くの古典を収集し、出版、筆写させた。大内版と呼ばれるこれらの出版物のうち、政弘は法華経28巻や漢詩辞書『聚分韻略』を出版している。 父・教弘の末期から引き続いて応仁の乱まで幕府との対立関係が続いていたが、その背景には瀬戸内海の支配権や日明貿易の権益を巡って激しく対立した細川氏京兆家との関係によるところが大きく、足利将軍家に反抗する意思はなかったとみられる。そのため、応仁の乱が終結して細川氏との対立が小康状態に入ると、政弘は積極的に幕府との関係再建に努め、京都から帰国の際には足利義政から北九州攻略を認める御内書を与えられている。
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