入院から手術まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 13:43 UTC 版)
「エホバの証人輸血拒否事件」の記事における「入院から手術まで」の解説
1992年(平成4年)7月6日、Aは立川病院において、悪性の肝臓血管腫であるとの診断を受けた。Aは輸血をせずに手術をすることを望んだものの、同病院の医師から不可能であるとして拒否されたため、11日に同病院を退院した。そのため、退院後Aは輸血なしで手術が可能な医師・病院を探していた。 医師Bは、エホバの証人の教義に協力的である医師を紹介するエホバの証人の医療機関連絡委員会(以下連絡委員会)の間で、輸血をせずに手術を行った経験があることで知られていた。Aが輸血なしで手術を行える医師・病院を探していることを知った連絡委員会は、7月27日にBに対してAの病状ならびに輸血を拒否する意向を伝え診療を依頼した。依頼を受けたBは、がんが転移さえしていなければ輸血なしで手術が可能である旨を伝え、すぐに検査するよう述べた。8月18日、AはBが所属する東京大学医科学研究所附属病院(以下医科研)に入院した。医科研では医師C、Dの2名がAの主治医となった(以下B・C・Eを医師Bら)。 同日、CがAに対してごく少量の血液や、自己血輸血の可否を問うたのに対して、Aは「できません」と答えた。9月7日、Dが「手術には突発的なことが起こるので、そのときは輸血が必要です」「輸血しないで患者を死なせると、こちらは殺人罪になります。やくざでも、死にそうになっていて輸血をしないと死ぬ状態だったら、自分は輸血します」と言ったところ、Aは「死んでも輸血をしてもらいたくない、そういう内容の書面を書いて出します」と言ったが、Dは「そういう書面をもらってもしょうがないです」と答えた。同月10日、Aは医科研の指示で都立広尾病院でMRI検査を受け、同月11日、検査結果をCに渡した。その際にCは、再び輸血の可否を問うたが、Aも前回同様「できません」と答えた。 検査の結果を受けて、手術に関わる医師らは手術についての術前検討会を行った。検討会の結果、Aの腫瘍は不測の事態から大量の出血に至る可能性があるとされ、基本的に輸血を行わないとしても、生命が危険な事態に備えてあらかじめ血液を準備する必要性があるという意見が出されたため、血液を準備することになった。これは、医科研は患者の輸血拒否の意志を尊重して極力輸血を行わないようにはするが、輸血以外には救命手段がない場合は患者およびその家族の許諾の有無にかかわらず輸血を行うという方針(相対的輸血拒否)をとっていたためである。 9月14日、BはAの夫ならびに息子に手術の説明を行った。その際Bは、再出血があった場合の再手術の可能性について触れ、その際は「医師の良心に従って治療を行う」と輸血の可能性について言外に示そうとした。説明後、Aの息子は、Aが輸血を受けられないこと、輸血をしなかったために生じた損傷に関して医師および病院職員などの責任を問わない旨とAの署名を記載した免責証書をBに手渡したところ、Bはこれを「わかりました」と受け取り、同席していたCまたはDに渡した。 9月16日、Aに対する手術がB、C、D、肝臓外科医であるE、麻酔科医であるF、Gら(以下Bら)によって行われたが、患部の腫瘍を摘出した時点で出血が多量となったため、Bらは輸血をする以外にAの命を救うことができないと判断して輸血を行った。その結果、手術は成功した。医師Bらは、輸血の可能性を伝えることでAが治療を拒否することを恐れ、最後まで相対的輸血拒否の方針をAに説明しなかった。
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