児島善兵衛の佐位(伊勢崎)、那波、勢多系
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「気楽流」の記事における「児島善兵衛の佐位(伊勢崎)、那波、勢多系」の解説
児島系は、12世の児島善兵衛から同じく臥龍斎の弟子だった五十嵐金弥(13世)へ伝わり、14世 斎藤武八郎は伊勢崎藩柔術師範になった。 児島系の隆盛の理由としては、寛政の改革以降の武術奨励や、天明の飢饉による農村の疲弊、無宿人の増加による治安悪化、地理的に、旗本領、寺社領や中小藩の領が入り組んでいた、武州、上州等の北関東の治安状況が悪化したことにより、治安維持目的として、関東取締役の配下で郷村百姓の寄場組合が構成されたことにから、武士だけではなく、百姓や町人にも武術稽古が広く普及したことがあげられる。 さらに、斎藤武八郎が上州佐位郡伊勢崎藩の柔術師範となったことなどから、伊勢崎近隣各郷の郷士、農民層から武八郎の弟子になるものが多く、山田郡穴原村の奥澤七事斎良重、武八郎の婿養子の斎藤武七郎、勢多郡下川渕村の長沼綱吉、高木周輔、新田郡大純村の加藤勝馬 等が15代に挙がる。 ただし、児島系で現代まで残るのは長沼の系統のみともいう、意見もある。 斎藤武七郎は養父の跡を継いで上州佐位郡の伊勢崎藩(酒井氏の陣屋支配領)の指南役となったが、廃藩置県で職を失い、上州佐波郡采女村伊与久で道場を開いた。この系統は武七郎の養子・武二郎へと続く。 加藤勝馬は新田岩松道純に仕え新田家柔術指南役となった。弟子には根岸義高などがいる。長沼綱吉の系統は勢多郡下川淵村(群馬県前橋市下川渕町)で続いた。 この長沼のとき、甘楽藤岡系の長山弥一(新田郡新田町)と長沼の高弟・栗原長蔵が正統気楽流を巡って争っており、甘楽藤岡系との対立がみられた。 長沼のあとは新井平馬・新井久平の2系統がみえる。16代新井久平系は17代森正秀へ続く。16代新井平馬の系統は17代新井数馬、18代新井道次郎と続く。 道次郎の弟子には19代となり前橋で道場を開き道次郎の葬儀で演武を奉納した飯嶌文夫や、気楽流保存会の水科寿美がいる。 19代飯嶌文夫と水科寿美はお互いが「宗家」と名乗っており、児島善兵衛・五十嵐金弥・斎藤武八郎・長沼綱吉・新井平馬・新井数馬・新井道次郎から自身へ続くとしている。岩井作夫によれば、甘楽系と秩父系が「宗家」と呼称していないのは伊勢崎の児島系に遠慮しているからという、 対して、気楽流はそもそも歴史的に、地域的人的関係によって道場間を超えての稽古交流が盛んであり、多くの師範は、複数の師範から指導を受けていた経緯等から、そもそも、天神真楊流や浅山一傳流、馬庭念流のような宗家制度は設けてはおらず、「宗家」は近年独自の創作創流であるとの反論が、前述山田や小佐野からある。 元は型が360手あったが、戦後の入門者激減などで失伝し、100余しか残っていないとされる。また型は本来、居捕り・十手・鉄扇・棒・太刀・契木・鎖鎌・単縄・真剣の大きく9つに分かれていたが、このうちの十手・鉄扇・単縄が現在全く伝承されていない。 武道研究家・武器研究家の岩井作夫(武備舎)は19世飯嶌文夫の門人と称する。
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