侵攻に至る経緯
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「モンゴルのビルマ侵攻」の記事における「侵攻に至る経緯」の解説
ウリヤンカダイによる大理の征服(1253年 - 1254年)以来、モンゴル帝国とパガン朝は国境を接するようになっていた。帝位継承戦争(1260年 - 1264年)を制し国号を大元としたクビライは、さらなる領土の拡張を目指し、周辺の国々に入貢と臣従を求め使者を送った。 パガン朝のナラティーハパテ王は、1271年に初めて使者が来た際これを拒絶し、1273年に再び使者が訪れた時にはこれを処刑した。この侮辱的行動に対し、クビライはすぐには行動を起こさなかったため、ナラティーハパテは属国でありながら元朝に内通した金歯などのタイ系の諸族に対し報復攻撃をしかけた。これに対応する形で、初めてモンゴル軍(元軍)はパガン朝に対し大々的な軍事行動を起こした。
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侵攻に至る経緯
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「ナーディル・シャーのムガル帝国侵攻」の記事における「侵攻に至る経緯」の解説
18世紀初頭、ムガル帝国が衰退に入ったとき、イランを支配していたサファヴィー朝は、それより前の17世紀のアッバース1世の死後から衰退に入っていた。 アッバース1世の死後、サファヴィー朝では無能な王が続き、宮廷の内部争いなどで王国は乱れ、アゼルバイジャンとバグダード、タブリーズを含む南イラクはオスマン帝国に奪い返された。さらに、17世紀末、サファヴィー朝支配下のアフガニスタンではアフガン系民族の反乱が起こり、アフガン系ギルザイ族の反乱は深刻で、1722年には王朝の首都イスファハーンが占領された。 そのころ、1720年代からテュルク系アフシャール族(英語版)のナーディル・クリー・ベグ(のちのナーディル・ハーン)という人物が頭角をあらわした。この人物は盗賊の首領であったが、サファヴィー朝の混乱に乗じ各地を制圧して力をつけ、カズヴィーンへ亡命していたサファヴィー朝の王タフマースプ2世と組み、1729年にイスファハーンを奪還した。 その後、1730年までにナーディル・ハーンはイランからギルザイ族を駆逐してアフガニスタン方面へと追いやった。ムガル帝国のムハンマド・シャーに対しては、ギルザイ族がイランに侵入せぬようにアフガニスタンを統治することを要請しているが、衰退している帝国にそのような力はなかった。 1732年、サファヴィー朝がオスマン帝国に敗北してタフマースプ2世が屈辱的な条件の講和を結ぶと、ナーディル・ハーンはタフマースプ2世を捕えて廃位した。彼はその息子アッバース3世を新たな王に即位させ、その摂政となりサファヴィー朝を支配した。 その後、ナーディル・ハーンはトルコやロシアと戦い、軍事的天才である彼は周辺諸国より優位に立ち、サファヴィー朝末期にイランの国力は急速に上がった。そして、1736年にナーディル・ハーンはアッバース3世から王位を簒奪してサファヴィー朝を廃し、「シャー」を名乗りナーディル・シャーとなり、新たにアフシャール朝を創始した。 18世紀にインドのムガル帝国が衰退していたのに対し、イランのほうでは勢力が回復しているのを見ると、両国は実に対照的であるといえる。
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