作品にこめられた寓意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 05:19 UTC 版)
「読書するマグダラのマリア」の記事における「作品にこめられた寓意」の解説
この作品でファン・デル・ウェイデンはマグダラのマリアを、ローマ教皇グレゴリウス1世の時代に『ルカによる福音書』11章に登場する悔悛した娼婦と同一視されたベタニアのマリアをもとにして描いている。その後マグダラのマリアは涙と読書とに関連付けられるようになり、罪人に悔悛の涙を流させるようなキリストの慈悲を象徴する人物となっていく。ルネサンス初期の芸術家たちがマグダラのマリアのことを、涙やみ言葉を象徴する穏やかな目をした女性、あるいは読書しながら涙を流す女性として描いたことも、このようなマリアのイメージを広く伝播させることに一役買った。16世紀にマリアを描いた絵画の中で好例といえるのがティントレットやティツィアーノの作品である。これらの絵画の中でマリアは書物を手にしており、本から目を背けて泣いている、天を見上げている、恥ずかしそうに作品を見る者のほうに目を向けているなどの表現で描かれている。モシェ・バラシュは著書『The Crying Face』のなかで、ファン・デル・ウェイデンの時代には、背けられた、あるいは伏せられた目の描写は「泣いている様子の典型的な絵画表現」になっていったとしている。 中世ヨーロッパでは書物を読むことが宗教的な意味合いを帯びるようになっており、個人的な信仰の表れであるとして他人の目に触れる場所では読書をすることがなくなっていった。ファン・デル・ウェイデンはこの作品でマリアを室内で読書する女性として描いているが、これは15世紀半ばのヨーロッパにおける家庭的な女性の識字率や女性平信徒の増加という現象を反映したものである。宗教的書物が大量出版されるようになったことが、当時の女性に詩篇、時祷書などを身近なものにし、私室でこれらの書物を読むことがごく普通になっていった。実在のマリアが書物に親しんでいたかどうかということとは無関係に、17世紀までには芸術作品におけるマリアの姿は書物とともにある女性として表現されることが一般的になっていく。これはマリアがキリストの磔刑、埋葬とそれに続く復活の両方に立ち会った女性であったことがキリストの事跡の伝道者であると見なされ、聖書と不可分な存在とされたことによっていた。 マリアはキリストの教えを書物に象徴されるような「言葉」として広く伝える人物とされ、過去の自身の堕落と悔悛が記された書物を読む女性として表現された。マリアが敬虔な悔悛した元娼婦であると同時に、女性預言者、導師といった側面も伝統的に併せ持つ存在であることも、読書する女性という象徴性を強めている。カトリックの伝承ではマリアはその晩年30年にわたって、サント=ボームで隠遁生活を送り、つねに書物を携えていたとされている。読書、筆写など書物に関することがマリアの晩年の瞑想や悔悛の象徴となっていたのである。しかしながら、13世紀ごろまでのマリアのイメージは、長い髪を身にからませながら恥知らずな暮らしを送った女性で、その後裸身を隠しながら流浪する「天使がもてあます天界と俗界を漂う」女性というものだった。 ファン・デル・ウェイデンが活動した時代では、香油壷はマリアを表す象徴としてごく一般的なものだった。また、ベタニアのマリアも懺悔するときにキリストの足に壷にある香油を塗ったとされている。ルネサンス期までのマリアのイメージは涙でキリストの脚を清め、自身の髪でその涙を拭ったというものだった。甘松の根から抽出した高価な香油をキリストの脚に注いだことから、マリアは「聖油の秘蹟」を象徴する聖女とされている。
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