佐久・伊那進出
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1910年(明治43年)3月になり、長野県知事らの調停によって供給区域の棲み分けに関する協定が長野電灯と信濃電気の間に成立した。協定内容は、長野市内における信濃電気の設備・供給権を長野電灯が買収するとともに、長野電灯は信濃電気から最低200 kW・最大1,000 kWの受電を開始する、というものである。協定成立により信濃電気は長野市内進出を断念し、代わりの販路を求めて東信地方進出を図り翌1911年(明治44年)に小県郡上田町(現・上田市)の上田電灯を合併した。 信濃電気の上田地域進出に対し、長野電灯においても信濃電気区域を避けつつ他地域へと進出する方針を立て、東信地方のうち上田地域の東側にあたる佐久地域と、県南部の伊那地方への拡大を図った。まず佐久地域では、1911年7月22日付で未開業の小諸電気合資会社から事業を譲り受け、北佐久郡岩村田町(現・佐久市)に佐久支社を設置した。長野電灯では小諸電灯のほかにも佐久地域で計画されていた岩村田電気合資会社・佐久電気株式会社を合同。南佐久郡北牧村(現・小海町)に松原湖の水を引く八那池発電所を、岩村田町と南佐久郡野沢町(現・佐久市)の2か所に変電所を配置し、1912年(大正元年)12月7日より佐久支社の事業を開始した。逓信省の資料によると、同年末時点では臼田・野沢・中込・岩村田・小諸などの町村に供給中とある。 一方の伊那地方では、1911年7月24日付で伊那電灯株式会社発起人から事業を譲り受けて伊那支社を開設した。伊那電灯は上伊那郡伊那町(現・伊那市)で重盛二三四らによって計画されていた事業者であり、これを引き継いだ長野電灯では天竜川水系小黒川における水力発電事業に着手した。逓信省の資料によると伊那支社の開業は1913年(大正2年)1月21日付で、翌年までに伊那町のほか北は南箕輪村、南は赤穂村(現・駒ヶ根市)までの範囲で供給を始めた。このうち赤穂村では村営電気事業の計画が以前からあり、開業早々に事業の村営化交渉が始まる。その中で村営化実現を求める住民により「不点火同盟」が結成されたため、長野電灯ではその切り崩しにかかったが、住民の反発を招いて1913年8月1日に同盟参加者による家屋の破壊・放火事件が発生した(赤穂騒擾事件)。 新設発電所の出力については、佐久支社の八那池発電所が270 kW、伊那支社の小黒発電所が225 kWであった。このうち佐久支社管内は需要が大きく、八那池発電所は1913年から540 kW、1915年(大正4年)8月から810 kWと増強が重ねられた。この間の1914年(大正3年)7月からは北佐久郡東長倉村(現・軽井沢町)での供給も始めている。佐久支社拡大の一方で、伊那支社については1915年11月25日付で伊那電車軌道(後の伊那電気鉄道)へ事業を譲渡し支社を閉鎖した。伊那電車軌道は伊那地方に鉄道(現在の飯田線北部に相当)を敷設しつつ1913年から電気供給事業も手掛けており、長野電灯伊那支社の買収以降も1918年(大正7年)に飯田の飯田電灯を合併するなど供給事業を拡大することとなる。
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