他の座商人との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:28 UTC 版)
中世の座はそもそも排他的な特徴を有していたが、保内商人たちも小幡・石塔・沓掛など近隣郷の商人との連合して、四本商人(しほんしょうにん)あるいは山越衆中(やまこししゅうちゅう)と称される集団を形成し、他の琵琶湖周辺の座商人と対決していく。大永7年(1527年)には保内と同様に、四本商人内でも厳しい商業倫理を定めた掟書が作成され、団結を強めていたことが分かる。初期には売り場となる市の営業独占、戦国時代には商品を運ぶ交通路独占を狙って、他商人との闘争を繰り返し、それを本所の延暦寺や近江守護の佐々木氏(六角氏)に訴えた裁判記録も多く残されている。 四本商人はまず近江から伊勢路へ抜ける八風街道・千草街道両峠の交通路独占を試みて、他の商人と争論を繰り返した。保内商人の中には六角家臣の後藤氏・布施氏などとの間で主従関係を結ぶものもあった。寛正4年(1463年)閏6月3日には同じく比叡山の支配下にあった横関(現・竜王町)商人との間で、御服座の特権について延暦寺内根本中堂において争論が行われ、延暦寺は双方の権利を認める裁決を行っている。湖東商人としては後発組に属する保内商人は、このように延暦寺や六角氏の庇護の下、既存の商人の特権を浸食することで勢力を広げていく。 また伊勢への通商路を独占する四本商人に対し、若狭との通商を独占していた田中江・小幡・薩摩・八坂・高島南市の五箇商人と呼ばれる対立商人が存在した(→五個荘町#歴史参照。小幡のみ両方に属していた。また五箇商人は卸売専門で小売りは行わなかった)。文亀2年(1502年)には保内商人の「若狭江越荷物」が高島南市商人に押収される事件が発生。この事件をきっかけとして保内側は五箇商人が独占していた今津から小浜に至る九里半街道の通商を圧迫していく。保内商人を保護する六角氏は享禄2年(1529年)11月10日には、保内商人が持ち出した保元2年(1157年)11月11日付の後白河院宣(ただし偽文書)を本物であると認め、保内の商売当知行を安堵し、五箇商人に罰金5万匹(銭500貫文)を課す裁決を下した。これ以後、九里半街道ルートを確保した保内商人は若狭への進出が加速し、五箇商人の商圏も蚕食していった。
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