仏蘭戦争とスコーネ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:02 UTC 版)
「ブランデンブルク=プロイセン」の記事における「仏蘭戦争とスコーネ戦争」の解説
詳細は「フェールベリンの戦い」、「クルシュー潟越えの追撃戦」、および「サン=ジェルマン=アン=レー条約 (1679年)」を参照 1672年に勃発した仏蘭戦争において、ブランデンブルク=プロイセンは1669年の条約でネーデルラント連邦共和国(オランダ)と同盟を締結していたためオランダ側で参戦したが、フランスにクレーフェを占領される結果となった。1673年6月、フリードリヒ・ヴィルヘルムはオランダを見捨ててフランスと援助条約を締結、フランス軍をクレーフェから撤退させた。神聖ローマ帝国がフランスに宣戦布告すると(いわゆる帝国戦争(英語版))、ブランデンブルク=プロイセンは再び寝返り、帝国側について軍を供出した。これに対し、フランスは同盟国スウェーデンに圧力をかけ、北からブランデンブルク=プロイセンに攻撃するよう仕向け、スウェーデン王カール11世は気乗りしなかったもののフランスからの援助金に依存していたためやむなく応じ、1674年にブランデンブルク領ウッカーマルク(英語版)を攻撃してスコーネ戦争のドイツ戦線を開いた(スウェーデンのブランデンブルク侵攻 (1674年-1675年)を参照)。フリードリヒ・ヴィルヘルムはすぐに自軍をライン川からブランデンブルク北部に向け、ちょうど沼地を渡っているスウェーデン軍後衛に遭遇した。これが1675年のフェールベリンの戦いである。軍事的にはそれほど大規模な戦闘ではなかったが、その意義は大きく、フリードリヒ・ヴィルヘルムはここから反撃を開始してスウェーデン領ポンメルン経由でスウェーデン軍を追撃した(ポメラニア戦役 (1675年-1676年)を参照)。 ポーランド王ヤン3世ソビェスキはプロイセン公国への宗主権を回復しようとしており、その計画の一環として1675年6月11日にフランスと同盟を締結した。フランスは援助金などの支援を約束し、ヤン3世はフランスによるポーランド・リトアニア共和国国内での募兵とハプスブルク家を背後から撹乱するためのハンガリー反乱軍への進軍を約束した。計画が成功するにはまずポーランド・オスマン戦争(英語版)を終結させる必要があったが、これはフランスの外交官による努力にもかかわらず失敗に終わった。その上、教皇領がヤン3世の計画に反対、ポーランドの地主層もオスマン帝国のほうが脅威であるとして反対、マグナートたちもブランデンブルクとハプスブルク家の贈賄を受けて反対した。ポーランド国内のカトリック信者もプロテスタントであるハンガリー反乱軍への援助に反対し、ヤン3世の計画への不満がふくれあがった。そのため、最初の問題である対オスマン戦争は1676年のジュラウノ条約(英語版)で解決したものの、ヤン3世は皇帝側につき、プロイセン攻撃の計画は破棄された。 一方、スウェーデン領ポンメルンではフリードリヒ・ヴィルヘルムが大半を平定し、リューゲン島はデンマーク=ノルウェーが占領した(リューゲン島侵攻 (1678年)も参照)。フリードリヒ・ヴィルヘルムは続いてクルシュー潟越えの追撃戦でスウェーデン軍をプロイセンから追い出したが、フランス王ルイ14世はナイメーヘンの和約で仏蘭戦争を終結させると軍を東に進めてスウェーデンを救援、フリードリヒ・ヴィルヘルムはやむなくサン=ジェルマン=アン=レー条約で戦争前の原状回復に同意した。結果としてはオーデル川右岸の小さな地域をスウェーデン領ポンメルンから割譲させただけに終わったが、フリードリヒ・ヴィルヘルムはこの戦争で名を轟かせた。
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