京龍館の時代
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1921年(大正10年)、日本が統治していた時代の朝鮮の京城府練兵町83番地(現在の龍山区南營洞(朝鮮語版)83番地)、漢江通(現在の漢江大路)に面した練兵場跡地に、京龍館として開館した。同年、同府内の永楽町(現在の苧洞)に中央館、翌年には仁寺洞に朝鮮劇場が相次いで開業し、同府内の映画館は合計8館になった。当時の同館では輸入映画(洋画)を興行しており、1922年(大正11年)10月12日付の京城日報に掲載された同館の広告によれば、4日連続でシリアル『名金』(監督・主演フランシス・フォード、脚本・主演グレイス・キュナード、アメリカ公開1915年6月21日、日本公開同年10月10日)を上映している(右写真)。同広告には「京龍座」と記されているが、ともに記載されている電話番号が同館のものと一致している。 1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば、同年当時の同館の興行系統は東亜キネマであり、日本映画を上映していた。1927年(昭和2年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和二年版』によれば、大正末期当時の所有者は城南演芸会社、経営者は松田正雄、支配人は田中助次郎、観客定員数は記載なし、興行系統は東亜キネマに加えてマキノ・プロダクションの作品を上映していた。松田正雄は同時期に同府内本町(現在の忠武路)に喜樂館を所有および経営していた人物である。 昭和に入ると、同館の経営は石原磯三郎に移っており、支配人は田中助次郎で変わらず、観客定員数は750名、興行系統は日活およびマキノ・プロダクションに変更になっている。京城府内の映画館の数は、1932年(昭和7年)ころまで8館体制がつづいていた。 1940年(昭和15年)前後には城南映画劇場と改称、経営者も上田友義の個人経営に変わっている。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、1942年(昭和17年)、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない。
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