京龍館の時代とは? わかりやすく解説

京龍館の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:29 UTC 版)

城南劇場」の記事における「京龍館の時代」の解説

1921年大正10年)、日本統治していた時代朝鮮京城府練兵町83番地現在の龍山区南營洞(朝鮮語版83番地)、漢江通(現在の漢江大路)に面した練兵場跡地に、京龍館として開館した同年、同府内永楽町現在の洞)に中央館翌年には仁寺洞朝鮮劇場相次いで開業し、同府内映画館合計8館になった当時の同館では輸入映画洋画)を興行しており、1922年大正11年10月12日付の京城日報掲載された同館の広告によれば4日連続シリアル名金』(監督主演フランシス・フォード脚本主演グレイス・キュナードアメリカ公開1915年6月21日日本公開同年10月10日)を上映している(右写真)。同広告には「京龍座」と記されているが、ともに記載されている電話番号が同館のものと一致している。 1925年大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば同年当時の同館の興行系統東亜キネマであり、日本映画上映していた。1927年昭和2年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和年版によれば大正末期当時所有者城南演芸会社経営者松田正雄、支配人田中助次郎観客定員数は記載なし、興行系統東亜キネマ加えてマキノ・プロダクション作品上映していた。松田正雄は同時期に府内本町現在の忠武路)に喜樂館所有および経営していた人物である。 昭和に入ると、同館の経営石原三郎移っており、支配人田中助次郎変わらず観客定員数は750名、興行系統日活およびマキノ・プロダクション変更になっている京城府内の映画館の数は、1932年昭和7年)ころまで8館体制つづいていた。 1940年昭和15年前後には城南映画劇場改称経営者上田友義の個人経営変わっている第二次世界大戦始まり戦時統制敷かれ1942年昭和17年)、日本におけるすべての映画同年2月1日設立され社団法人映画配給社配給になり、映画館経営母体かかわらずすべての映画館紅系白系2系統組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない

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