京の浮世絵師・菱川清春
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天保年間の青年期は、京都で「菱川師宣五世」と称し、挿絵絵師として活躍していた。現在確認されている最古作は、1830年(文政13・天保元年)、清春23歳時の『御影流 参宮風流雅帖伊勢土産』(暁鐘成編)の挿絵を担当、「曄斎菱川清晴」と記している。この時期の代表作「摂州大阪天満宮御祭礼図」4枚続には、「浮世絵画工」と肩書きし、天保3年(1832年)の『傾城情史大客』(瀬川恒成著、関亭京鶴述)の跋文では「浮世絵師 菱川清春記」と自著、天保年間に版行された『伊勢物語』との扉絵に「美人の図」落款に「菱川師宣古図、翠松園珍蔵、五代目菱川清春模写」と記すなど、自覚的に菱川末流だと名乗っていたことがわかる。 1833年(天保4年)、26歳の時には、既に「月川輝重」という門弟を抱え、一家を成していた。また、一時大坂上町に住んでいたともいう。1832-36年にかけ、15件の版本挿絵を手掛けている。作例として、1834年(天保5年)、瀬川恒成作の『嵐峡花月奇譚(あらしやまつきはなものがたり)』2編10冊、1835年(天保6年)、池田東籬作の『銀河草紙』などが挙げられる。何らかの事情で出版されず、稿本のみ残る『絵本深山樹物語』(関西大学図書館蔵)では、稿本ならではの迫力ある画面を見せ、清春の高い画力が窺える。他に特筆すべき仕事として、1836年(天保7年)、祇園祭の長刀鉾・欄縁金具の下絵制作が挙げられる。
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