京の文化と鎌倉武士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
鎌倉の武士は、あるいは武士そのものが主に王朝貴族の末裔で、土着しながらも中央(京の権門)と結びつくことによって、在地での自分の身分職(しき)を維持し、うまくいけば官位を手にして在地での身分をより強固にした階層。あるいは京の下級官吏が権門に所職を与えられて関東に下った者達である。平安時代末期には関東の多くの在地領主は中央の権門、女院とか平家などと結びつくために出仕し、京の文化に触れている。 例えば元暦元年(1184年)6月に、鎌倉に来ていた頼朝の恩人である平頼盛が京に帰るというので、頼朝が送別の酒宴を開いたが、そのときに「京に馴るるの輩」として小山朝政、三浦義澄、結城朝光、下河辺行平、畠山重忠、橘公長、足立遠元、八田知家、後藤基清らが同席した。彼らは単に京に行ったことがあるということではなく、正二位権大納言つまり貴族として最上位に近い平頼盛のための酒宴の席で、ちゃんと頼盛を和ませるだけの京風の教養とマナーを心得た者ということである。頼朝などは年少の頃までその京の王朝文化の中枢で育ち、幼少の頃に既に右兵衛佐という官職を持っている。なので頼朝は貴種と呼ばれる。北条時政も大番役で京に出仕していて、戻ってきたら娘の政子が流人の頼朝とできていたという状態である。奥州藤原氏のように自身では京にのぼらなくとも、京の権門でも最強の摂関家の奥州荘園の管理者であり、また蝦夷地を含めた海産物や砂金の供給源として京と強い繋がりを持っている。奥州平泉の中尊寺は京の文化が地方の実力者にまで浸透していたことを示す良い例である。
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