五月十六日事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
詳細は「5月16日の危機(フランス語版)」を参照 1876年の選挙で共和派が勝利し、共和派の内閣が成立した。翌1877年5月16日、マクマオンは下院の支持を受けていた共和派のジュール・シモン(英語版)首相を罷免し、王党派のブロイを再び首相に再任させた。このブロイ内閣が不信任を受けると、マクマオンは上院の合意を得て下院を解散させた。しかしそれによって行われた10月の選挙ではマクマオン派による大々的な選挙干渉が行われたにもかかわらず、再び共和派が勝利し、共和派のジュール・デュフォール(英語版)内閣が成立し、マクマオンも事実上、議院内閣制を認めた。さらに1879年の総選挙でも共和派が勝利し、これを受け、マクマオンは辞任し、共和派のジュール・グレヴィが後任の大統領に就任した。 王党派であったマクマオンの辞任は、フランスの王党派の悲願であった王政復古の可能性を大きく萎ませ、この一連の事件によってそれまで大統領が持っていた強権は解体され、議会主義に基づく代議院の多数派に政治的決定権が委ねられるようになった。またこれにより大統領職も名誉職的な地位にまで縮小された。 5月16日事件を乗り切ったフランスは、1880年代になるとグレヴィを中心とする穏健共和派とジョルジュ・クレマンソーを中心とする急進派の二大勢力に分かれていた。 共和主義的な抜本的改革を主張する急進派らは、穏健共和派を「オポルチュニスト」(日和見主義者)と呼び非難したが、穏健共和派の漸進的な政策が1890年代まで展開された。特にジュール・フェリーに代表される「オポルチュニスト」の政権では、フェリーが1881年から1882年にかけて成立させたフェリー法によって初等教育システムの世俗化、義務化、無償化が実現し、その前年の1880年にはカミーユ・セー(フランス語版)が成立させた「カミーユ・セー法」によって女子教育機関が整備され、社会運動家のアルフレート・ナケ(フランス語版)によって1884年に成立させた「ナケ法」では離婚の合法化が、また同年にワルデック・ルソーによって成立した「ワルデック・ルソー法」で職業組合の結成の自由が認められた。他にも集会や出版の自由や、パリを除く市町村長で選挙制が定められ、ある程度の市町村自治も認められ、パリ・コミューン参加者に恩赦が与えられ、酒場開業の自由なども認められるようになった。
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