二子橋架橋以降とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 二子橋架橋以降の意味・解説 

二子橋架橋以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 08:16 UTC 版)

二子」の記事における「二子橋架橋以降」の解説

1924年(大正13年)の二子橋架橋先立って二子橋工事関係者のために、二子船宿亀屋」が二子神社裏に「新亀屋」を開業し架橋きっかけ芸者置屋待合料亭合わせた三業地形成された。芸妓屋や料理屋高津警察署許可得て結成され二子三業組合員の数は1932年(昭和7年)には43にのぼり、最盛期には全体100人の芸者がいた。業者渋谷大森の人が多く料理部5、6室の店を板前3人ほどで営業しアユマルタナマズウナギ甘露煮などが客に提供された。戦前までそれぞれのお茶屋が持つ屋形船七輪持ち込んで獲ったばかりのアユ料理していた。 昭和2年には玉川電気鉄道溝ノ口線現在の東急田園都市線)が開業し町内大山街道沿いに「二子」(後に二子新地前、二子新地)、および府中街道沿いに「高津」の 2駅が設けられた。 大山街道大正年間県道1号線指定され、後に国道246号線指定されるが、国道となった後に大規模な整備が行われ、津田山七面山)を切通し陸橋越え東京・横浜バイパス建設された。このバイパス道路国道指定されると、旧道国道指定から外され一般市道となる(なお高十字路以西溝口町内は県道14号鶴見溝口線)。以降旧道専ら大山街道」または「旧大山街道」と呼ばれている。 昭和中期までは、町内でも周辺各町と同様に多摩川肥沃平坦な扇状地活用した農業が盛んであった街道沿いに栄えた商店街から一歩入ると田畑広がり、また「多摩川梨」の産地一角でもあったが、近年急速な宅地化に伴い、今では町内農地ごく僅かに残るのみとなった近年まで、大山街道沿いには宿場町として栄えた時代名家商店などが建ち並んでいたが、昭和52年東急新玉川線現在の田園都市線一部開業後に東京都心への通勤圏組み込まれ以降急速に宅地化進み、しかも大山街道沿いは都市計画上で近隣商業地域指定されていたことから建物建築制限緩く、現在は大きなマンション乱立する光景へと急速に様変わりしつつある。

※この「二子橋架橋以降」の解説は、「二子」の解説の一部です。
「二子橋架橋以降」を含む「二子」の記事については、「二子」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「二子橋架橋以降」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「二子橋架橋以降」の関連用語

1
8% |||||

二子橋架橋以降のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



二子橋架橋以降のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの二子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS