二子橋架橋と玉電
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 06:38 UTC 版)
1923年(大正12年)の関東大震災で、罹災者の救援物資や復興物資の輸送のため、多摩川架橋の必要性は高まった。また、在京の陸軍部隊が多摩丘陵、相模原で演習をする際に不可欠な兵員、物資の輸送のため、多摩川の架橋実現には陸軍省の働きかけが強かった。橋の名前でも議論があり、東京側では「多摩橋」、神奈川県側は「二子橋」を主張していた。二子橋建設時には、玉川電気鉄道(当時)が建設費の3割弱を出資して利用権を得、東京府、神奈川県、高津村との四者4分の1ずつを負担し、総額36万円で完成した。架橋した際に橋上に軌道(橋上では単線)を敷設したことにより、玉川(現・二子玉川)~溝口(現・溝の口)までの玉電溝ノ口線が開通した。 以降、1927年(昭和2年)から1966年(昭和41年)までは玉電(その後東急大井町線・東急田園都市線)と歩行者、自動車等が併用する鉄道道路併用橋であった。 二子橋右岸の、現在は高架駅となった二子新地駅下には当時の線路跡と思われる地形が残っており、当時を偲ばせる。 二子橋を含む二子玉川駅~溝の口駅間は、1927年~1943年は玉電溝口線、1943年~1963年は改軌されて東急大井町線、1963年~1966年は大井町線から名称変更された東急田園都市線として運転されたため、同じ区間であるが3路線が運行されたことになる。 しかし、年々増加する自動車交通と鉄道の双方が二子橋を通行することは困難となった。また1964年には電車と大型トラックの衝突事故も発生した。そのため、鉄道専用橋が建設されることになり、1966年4月1日に東急田園都市線が長津田まで延伸されるのを機に、鉄道は専用橋(東急田園都市線二子橋梁)に移された。
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