中門廊と屋敷の格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:55 UTC 版)
中門が省略される場合でも中門廊の有無が屋敷の格式の境目となる。良い例が藤原定家である。公卿であった定家は五位の家司に自分の家を建てさせたら中門廊の無い家(画像060)を建てられてしまい、それが不満で、後から中門廊代を増築した。 画像530は鎌倉時代末14世紀の作とされる『法然上人絵伝』に描かれる押領使・漆間時国の館である。ここには中門の無い中門廊がある。そしてそこには武具をまとった郎党が宿直し、寝殿には屏風の向こうに主人夫婦の寝姿が描かれる。絵巻は「記号」(シンボル)の集合であり、この構図は寝殿に居る者と中門廊に居る者の身分的関係を簡潔に表している。つまりここに中門廊が描かれているのは、地方の在地領主ながら押領使で身分の高い武士ということを説明しようとしている。 飯淵康一が「寝殿造に於ける主人の出口」を比較したのは、その時代では最上級の摂関家である。「賀茂詣」や「春日詣」など、扈従はしても主役になることはない普通の公卿は、新築の寝殿に初めて入るときには寝殿南階を使うかもしれないが、新築の屋敷に入るなど一生の内何度あるかというぐらいで、ほとんど中門廊だったはずである。 公卿より下の諸大夫だったら裕福な受領でもないかぎり中門廊すら無かったかもしれない。前述の通り鎌倉時代初期の公卿だった藤原定家でさえ、晩年の屋敷を五位の家司に建てさせたら中門廊が無かった。家司の五位も諸大夫クラスの貴族ではあるが、彼らにとってはそれが普通の感覚だった。『年中行事絵巻』に唯一出てくる下級貴族の屋敷(画像a60)にも中門廊は無かった。しかし鎌倉時代後半の絵巻には、貴族社会の官位官職では下位に属しても、在地領主層として当時の社会では上位に位置する者の屋敷には中門廊が描かれる。中門廊は中級以上の屋敷を現すシンボルである。
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