中西部という呼び方の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 06:37 UTC 版)
「アメリカ合衆国中西部」の記事における「中西部という呼び方の歴史」の解説
中西部(Middle West)という呼び方は19世紀に創られ、続いて"Midwest"となった。中西部の中心は、五大湖、オハイオ川およびミシシッピ川渓谷で仕切られたが、これは元々の北西部領土を構成する「古北西部」(あるいは西部)であった。アメリカ合衆国国勢調査局はこの地域を「北東中央諸州」と呼び、地域住民は「五大湖」地方としている。 北西部領土はイギリスの開拓地(それ以前はフランスと先住民族)の割譲から始まり、アメリカ合衆国憲法が批准される前の連合会議で北西部条例が成立して定義された。北西部条例は奴隷制度と宗教による差別を禁止し、公立学校と私有財産を奨励したが、領土が州に昇格されるまでは適用されなかった。北西部条例は公有地測量システムによる矩形格子単位で土地が測量され売却されるやり方を定めたが、オハイオ州にまず適用された。この矩形格子に区切る方法は中西部全体で郡の形や道路網に見ることができる。 対照的にケンタッキー州とテネシー州の土地は、地勢的特徴を使った境界法によって測量され売却された。独立戦争の古参兵がオハイオの土地を与えられて移住し、さらに他の開拓者と中西部の州に入るにつれて、この地域は最初に完全に「アメリカ化された」地域となっていった。20世紀の歴史家フレデリック・ジャクソン・ターナーは国民的性格となった個人主義や民主主義の形成について開拓者達を賞賛した。 今日の「中西部地域」は北西部条例で創られた州のみを指すのではなく、アパラチア山脈とロッキー山脈の間でオハイオ川の北の州を含んでいる。全部で12の州がアメリカ中西部に含まれている。 「西部」という言葉は合衆国初期にこの地方に適用された。後にアパラチア山脈から西の地域は「極西部」(今日の合衆国西部)と「中西部」に区分された。中西部にある幾つかの場所は、歴史的な経緯から「北西部」を使ってきた(例えばミネソタ州に本拠を置くノースウエスト航空やイリノイ州のノースウェスタン大学)。現在の合衆国北西部は区別をつけるために太平洋岸北西部と呼ばれている。 今日中西部と考えられる領域の境界は曖昧になっている。この地域の人々は様々な理由、定義、認識から中西部出身であると見なしている。その使い方は歴史を追って変わり、以前は「西部」と見なされていた州を含む方に拡大されている。北西部領土が東海岸と当時の極西部との間に在ったため、1789年に「北西部」と呼ばれ、1898年まで「中西部」と呼ばれた中から州が生まれてきた。 19世紀初期、ミシシッピ川の西は何でも西部と考えられ、中西部はアパラチア山脈の西でミシシッピ川の東であった。そうするうちにミネソタ州、アイオワ州およびミズーリ州を含むようになり、西部プレーリーの開拓が進むにつれて、「グレートプレーンズ諸州」という言葉が、ノースダコタ州からカンザス州までの並びの州を指して使われるようになった。後に、これらの州は非公式ながら中西部と言われるようになった。今日「極西部」は西海岸を意味し、プレーリーの西部、コロラド州、ワイオミング州およびモンタナ州まで時には「中西部」と考えるようになってきた。
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