中西進の分析
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国文学者で万葉集の研究などで知られる中西進は、『松本清張研究』第六号(2005年)に『比喩としての翡翠-松本清張『万葉翡翠』をよむ-』を寄稿した。清張は中西に古代のさまざまな事柄について尋ねたり自説を展開したりの電話を何度か掛け、中西も清張の対談や座談会に何度か出席したことのある間柄だった。 中西は清張の古代への発言に対して高い評価を与えるとともに、その説について「傾聴に値する」として、『万葉翡翠』での「翡翠国産説」を取り上げた。中西は1981年12月に出版した『万葉集全訳注』で「渟名河の 底なる玉」の歌の注で清張の説く「玉=翡翠」説を完全に認めている。 中西はさらに歌の内容に分け入り、清張が「得まし玉かも」と読み下した部分の原文が「得之玉可毛」であることから「得し玉かも」と読む方が自然であり、「買い求めてやっと得た玉」ではなく「探し求めてやっと拾った玉」と考えた。中西は『万葉翡翠』での八木助教授と学生たちの会話から「翡翠は中国南部やビルマ北部からの輸入品だって買える」という部分を取り上げ、「買った玉」より「探し求めてやっと拾った玉」の方が日本国内原産説にはかえって好都合だとしている。 『万葉翡翠』自体について、中西は今まで「輸入品」とされていた翡翠が、実は日本国内の産だとする説を小説の形で述べたものと解説した。中西は通常の小説が「虚」を読者に提供することを主眼にするのに対して、『万葉翡翠』は敢えてその逆を行っていることを指摘した。中西は作品に出てくるフジアザミにも着目し、『砂の器』に出てくる出雲弁と東北弁との対比を例に出して「地域の固定観念を破るところに、著者の真骨頂があるのかもしれない」としてそれらの意外性が読者を知的興奮に導くことを説いている。
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