中東の委任統治領をめぐる問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「中東の委任統治領をめぐる問題」の解説
イギリスは大戦時、アラブ人にトルコに対する反乱(アラブ反乱)を起こさせるため、彼らに戦後の独立を約束していた(フサイン=マクマホン協定)。これによりハーシム家のファイサル王子らアラブ勢力は『アラビアのロレンス』として知られるイギリス軍人トーマス・エドワード・ロレンスらとともにトルコと戦った。一方でイギリスは大戦中にユダヤ人の協力を引き出すため、パレスチナにユダヤ人国家建設も認めており(バルフォア宣言)、さらに他方でフランスとの間に「肥沃な三日月地帯」を英仏で分割統治するというサイクス・ピコ協定も結んでいた(三枚舌外交)。戦後にはサイクス・ピコ協定が最優先され、パレスチナ(イギリス委任統治領パレスチナ)とイラク(イギリス委任統治領メソポタミア)はイギリス委任統治領、シリア(フランス委任統治領シリア)とレバノン(フランス委任統治領レバノン)はフランス委任統治領になったから、ファイサル王子の立てていた大アラブ帝国構想は粉々になり、アラブ人の間に不満が起こり、イラクやシリアで暴動が発生するようになった。 これを鎮静化すべくチャーチルはロレンスを補佐役とし、1921年にカイロ会議を主宰した。この会議によりファイサルはファイサル1世としてイラク王に即位することとなり、またその兄アブドゥッラー1世もパレスチナから切り離したトランスヨルダン王に即位することが取り決められた。パレスチナ、トランスヨルダン、イラクの実質的支配権、またイランとの通商、エジプトのスエズ運河はイギリスががっちりと握りつつ、ハーシム家の顔も立てた形であった。またイラクに駐留するイギリス陸軍を撤退させ、変わって空軍が秩序維持にあたった。 一方ユダヤ人もバルフォア宣言でパレスチナ移住が認められており、国際連盟がイギリスにパレスチナ統治を委任した規約の第6条では「パレスチナの統治機構は、この地域の他の住民の権利と地位が侵害されないことを保証しながら、適切な条件下でユダヤ人の移住を促進する」と定められた。この条項には様々な解釈があったが、チャーチルは「この地域の経済力を超えない範囲、パレスチナ人の職が奪われない範囲内でのユダヤ人の移住促進」という意味だと解釈し、以降これがイギリス植民地省の基本スタンスとなった。これにより裕福なユダヤ人が無制限に入国・移民できる一方、貧しいユダヤ人は移住に様々な制限がかけられることが多いという不平等が生じた。以降イスラエル独立までに50万人のユダヤ人がイギリス植民地省の監督のもとにパレスチナへ移民し、パレスチナの総人口の30%を占めるようになった。
※この「中東の委任統治領をめぐる問題」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
「中東の委任統治領をめぐる問題」を含む「ウィンストン・チャーチル」の記事については、「ウィンストン・チャーチル」の概要を参照ください。
- 中東の委任統治領をめぐる問題のページへのリンク