上ハンガリーでのハンガリー軍の反攻
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「ハンガリー・ルーマニア戦争」の記事における「上ハンガリーでのハンガリー軍の反攻」の解説
クン・ベーラは対ルーマニア戦の中断を利用して、打ちつぶされた彼の国際的地位を改善しようとした。彼は敵の中で最も弱いと思われるチェコスロバキアに対する攻撃を準備した。ルーマニアには先に敗退しており、セルビアにはフランス軍が駐留しており攻撃は不可能だと判断したからである。彼はチェコスロバキアへの攻撃によって、ハンガリーの国境を回復すると国民に約束をして支持を得ようと考えたのである。クンはまたロシアのボリシェヴィキの同志との連絡をつけようともした。国際的には、ハンガリー民族が多数を占める地域が大戦後に新生チェコスロバキアへ与えられたことは不正であるとの信条に基づいて行動したと彼は主張している。軍隊を強化するため、クン政権は彼に残された土地の19歳から25歳の男子に対して大量徴兵をかけた。またブダペストの工業地帯を中心とした労働者が多数軍に志願している。彼はまた旧オーストリア・ハンガリー軍士官を多数採用した。彼らはイデオロギーよりも愛国心から軍に入隊している。上ハンガリー(現在のスロバキア)への攻勢のため。第1、第5の2個師団に合計40個大隊を集結させた。 5月20日、シュトロンフェルド・アウレール上級大将に率いられたハンガリー軍は攻撃を開始しミシュコルツでチェコスロバキア軍を潰走させた。ルーマニア軍はチェコスロバキアとの連結を保つために第16歩兵師団と第2山岳猟兵師団からの部隊でハンガリーの側面を攻撃したが、作戦は成果なく、チェコスロバキア軍の敗走を食い止めることはできなかった。ルーマニア軍はトカイの橋頭保まで後退し、5月25日から30日まで防戦した。ハンガリー軍のチェコスロバキア軍攻撃は成功し、その結果、北方のルーマニア軍は側面を脅かされることになった。6月3日、ルーマニア軍はトカイからティサ川東岸への退却を強いられ、その過程で橋を落とし、ハンガリー軍との接触を絶った。側面包囲の危険に対処し、そしてハンガリーとソ連の連絡を妨害するためにティサ川周辺のルーマニア軍は防衛線をより北方へ拡張し、第8師団(5月22日にブコビナへ移動していた)と連結した。 新生チェコスロバキアに対する攻撃の成功により、ハンガリー共産主義者たちは上ハンガリー地域に傀儡国家スロバキア・ソビエト共和国を樹立した。作戦の終わりにはハンガリー軍は北部カルパチア山脈の旧国境まで到達した。この作戦によってミシュコルツ、シャルゴータルヤーン、バンスカー・シュチャヴニツァといった重要な工業地域を奪回することができた。そして、彼らは東方のルーマニア軍に対する進撃を計画する。
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