上マトル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 15:17 UTC 版)
上マトル(上ナンマトル)で特筆される遺跡は、ナントワス (Nandowas)である。二重の周壁を備え、多機能を持っていた遺跡であり、その名は「口の中に」を意味する。これは、人々は首長の口の中に何があるのか知りえないことと、ナントワスの周壁の内側で何が行われているのか分からないことが重ねられている。この場所はシャウレテウル朝歴代の王が葬られた墓所であり、最後の王シャウテムォイもここに葬られたとされる。 ナントワスの二重の周壁は、外周壁が縦64 m、横54 m、高さ 9 m、厚さ 3mで、内周壁が縦30 m、横24 m、高さ4.5 m、厚さ 1.8 mとなっている。中心部の石室にシャウテムォイが葬られたと伝えられるが、外周壁と内周壁の間にも他に2つの墓がある。ナントワスからは、過去の発掘調査で、シャコガイ、イモガイ、チョウガイ、アカザラガイなどを加工した貝製の斧、釣り針、腕輪・耳輪などが発見されている。ナントワスの築造年代は、放射性炭素年代測定によると、西暦1150年頃と見積もられている。 ナントワスの正面と両脇に位置するのが、タウ (Dau)、パーントワス (Pahndowas)、ポーントワス (Pohndowas) で、建設、防衛など、ナントワスでの作業に従事する人々が暮らしたとされている(Pahnは「下」、Pohn は「上」)。 ウシェンタウ (Usendau) は司祭者の居住地であり、シャウテレウル朝滅亡後はナーンマルキの居住地となった。この遺跡にはU字型のプラン(平面図)のナース(nahs, 集会場)や石積み祭壇の跡が残り、放射性炭素年代測定の結果では、島そのものは760年ごろに作られたとされる。これは、最下層の炭化物から導かれた年代である。なお、ウシェンタウ、ペインキチェル、タパーウ(後二つは以下を参照)などに囲まれた地域には小さな人工島が多く残るが、これらのうち30以上が司祭者の住居に使われていた島とされている。 上マトルには他に、人工島の中で唯一、チェムェン島本土と直接接するペインキチェル (Peinkitel) もある。この遺跡はナントワス、パーンケティラ(後述)と並んで特に重要な場所とされ、伝承上、オロシーパとオロショーパが葬られたことになっている。日本の委任統治領時代の発掘で2体の人骨が出土しており、マサオ・ハドレイによると、嵌めていた腕輪などから、地元ではオロシーパとオロショーパの2人の骨と信じられたという。それとは別に、イショケレケルの墓とされるロロン様式(ポンペイ島本土にも見られる石積墳墓の様式)の墓もあり、シャウテレウルやナーンマルキのうちの何人かもこの島に葬られたとされる。 高位の司祭者のものと考えられるロロン様式の墓があるのが、外縁にあたるカリアン (Karian) である。後出のパーンウィもそうであるが、防波堤の役割を果たす人工島には、多くの墓が築かれている。これは、カーニムェイショに死者の霊がゆくと考えられていたことと結びついているという。 葬礼との結びつきということでは、上マトルにはコーンテレック (Kohnderek) もある。この人工島は葬礼の最後にたどり着く場所で、埋葬に先立ち、「死の踊り」が披露された。踊りは、遺族を慰撫する目的もあったという。 他の人工島としては、食用・燃料用・儀式用などに使われたヤシ油の生産地であったペインエリン (Peinering)、カヌー工房のタパーウ (Dapahu)などを挙げることができる。
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