三和中学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/20 09:44 UTC 版)
三和中学校(さんわちゅうがっこう、みわちゅうがっこう)
- いわき市立三和中学校(みわちゅうがっこう)
- 古河市立三和中学校(さんわちゅうがっこう)
- 市原市立三和中学校(さんわちゅうがっこう)
- 福知山市立三和中学校(みわちゅうがっこう)
- 広島市立三和中学校(さんわちゅうがっこう)
- 三次市立三和中学校(みわちゅうがっこう)
- 長崎市立三和中学校(さんわちゅうがっこう)
- 熊本市立三和中学校(さんわちゅうがっこう)
- 糸満市立三和中学校(みわちゅうがっこう)
廃校
- 岐阜県
- 安八郡学校組合立三和中学校(みわちゅうがっこう) - 1952年統合。現・大垣市立東中学校
- 三和村立三和中学校(みわちゅうがっこう) - 1952年統合。現・美濃加茂市富加町中学校組合立双葉中学校
- 愛知県
- 西尾市立三和中学校(みわちゅうがっこう) - 1965年統合。現・西尾市立東部中学校
- 常滑市立三和中学校(みわちゅうがっこう) - 1958年統合。現・常滑市立青海中学校
関連項目
三和中学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 17:01 UTC 版)
三重県新学制実施協議会は、「新制中学校は独立校舎を持ち、生徒数450人以上、9学級編成とすること」を基本方針としたため、一志郡内でも大井・高岡・川合・波瀬の4校を統合することで調整が進められた。このうち、波瀬中学校に関しては遠隔地であるため分校とすることも検討されたが、大井・高岡・川合の3中学校のみを統合し、波瀬中学校は存続とすることが決定した。よって、大井・高岡・川合の3中学校は1948年(昭和23年)7月15日に統合し、3つの中学校が統合されたことにちなんで三和中学校と命名された。校舎は高岡村立高岡小学校を借用し、7月20日に旧3校から備品を持ち寄り、8月16日に全校生徒568人と教職員26人の対面式が挙行され、正式に始動した。 翌1949年(昭和24年)2月12日には地鎮祭を催行して高岡村田尻353に新校舎の建設を開始し、1950年(昭和25年)11月11日に落成式を挙行した。ところが新校舎は1951年(昭和26年)6月に不審火で焼失してしまい、1年生を高岡村立高岡小学校に、2年生を大井村立大井小学校に、3年生を川合村立川合小学校に通学させる分散授業を行うことになった。住民の協力を得て、1951年(昭和26年)9月28日に地鎮祭と起工式を行って再建に着手し、1952年(昭和27年)5月18日に落成式が行われた。この校舎は、施設優良校として1952年(昭和27年)11月3日に文部大臣から表彰を受けている。1953年(昭和28年)9月24日に第1回修学旅行(東京方面)を実施した。 1955年(昭和30年)、一志町の発足により学校組合立三和中学校から一志町立三和中学校に改称する。その後、同和教育研究指定校(県指定:1958年〔昭和33年〕、県・国指定:1960年〔昭和35年〕)、現職教育指定校(県指定:1964年〔昭和39年〕)、特殊教育指定校(県指定:1965年〔昭和40年〕)、道徳教育研究学校(国指定:1969年〔昭和44年〕・1970年〔昭和45年〕)となり、各種研究発表が行われた。1971年(昭和46年)、波瀬中学校と統合することになり、23年の歴史に幕を下ろした。この間、3,823人の卒業生を送り出した。
※この「三和中学校」の解説は、「津市立一志中学校」の解説の一部です。
「三和中学校」を含む「津市立一志中学校」の記事については、「津市立一志中学校」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 三和中学校のページへのリンク