三代目組長襲名後
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三代目襲名時の組員は三十数人だった。 賭博のテラ銭は、競輪、競馬 及び競艇の公営競技の隆盛によって、主要な収入源ではなくなり、別のしのぎを模索することになり、戦前からある浪曲興行からその他の演芸興行全般に手を広げ、平行して神戸港の港湾荷役にも進出した。 港湾荷役と神戸芸能社は組の二大収入源となり、山口組のその後の全国的な活動を支えた。 1953年(昭和28年)1月17日、全国港湾荷役振興協議会(全港振)設立には会長の藤木幸太郎を助け、自らも副会長に就任した。 芸能プロダクション神戸芸能社は、美空ひばり、田端義夫などトップ・スターの興行を手がけた。 1953年(昭和28年)、山本健一らによる鶴田浩二襲撃事件で鶴田襲撃を命じた張本人とされて全国指名手配を受け、同年4月20日、天王寺署に出頭、逮捕される。同年5月4日、処分保留で釈放され、不起訴処分となる。 青田昇によれば、戦後の混乱期においてはプロ野球の試合は、地回りの興行組織の機嫌を伺わなければ開催できずに嫌がらせを受けていたが、プロ野球ファンであった田岡は、野球は国民的娯楽だからと山口組の全国進出以後はそのような慣習なしでも開催できるよう取り計らいをしたという。 1968年(昭和43年)1月11日には吉本興業の林正之助社長と共に、「レコード会社乗っ取り容疑」で兵庫県警に逮捕されている(不起訴)。 組員に合法的な収入源を持つように勧めた。 それまでのヤクザ組織には無かった合法事業を持つ舎弟と若衆には、非合法な事業を扱わせずに、組織の分業化を進め、結果として組の運営を合法事業と非合法事業に分けることにより、安定した資金源と、非合法な力を持つことになった。本人も「これからのやくざは経済新聞を読まなきゃあかん」「株の動向に注意するぐらいでないとあかんぞ」「正業へつけ正業へ」というのが口癖であったという。 1950年代から60年代にかけて傘下の団体が全国へ進出、各地で抗争事件を引き起こした。 1963年(昭和38年)には田中清玄や菅原通済と連携した麻薬追放国土浄化同盟を結成し、市川房枝らとともに麻薬撲滅運動を展開しているが、横浜に支部(益田組)を出した時には地元勢力とトラブルとなった。 山口組を全国規模の組織に育て、警察庁から広域暴力団の指定を受けた。
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