ヴォイチェフ・ムウィナルスキとは? わかりやすく解説

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ヴォイチェフ・ムウィナルスキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/21 14:09 UTC 版)

ヴォイチェフ・ムウィナルスキ
Wojciech Młynarski
2012年撮影
生誕 (1941-03-26) 1941年3月26日
ポーランド ワルシャワ
死没 2017年3月15日(2017-03-15)(75歳没)
ポーランド ワルシャワ
職業 歌手作詞家作曲家作家翻訳者
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ヴォイチェフ・ムウィナルスキポーランド語: Wojciech Młynarski1941年3月26日 - 2017年3月15日)は、ポーランドシンガーソングライター。そのほか詩人翻訳者演出家としても活躍した。

生涯

1941年3月26日ワルシャワで生まれる[1][2]。父親は1943年に亡くなり、ヴォイチェフと母親はワルシャワ近くの家に移り住み[3]、そこで青春期までを過ごした。隣人の中にはのちに女優として活躍したマヤ・コモロフスカもいた。 1957年、ムウィナルスキはワルシャワ大学ポーランド学部で勉強を始めた[4][5]1960年代に入ると、キャバレー劇場で歌を披露するようになる。

1964年から1966年まではポーランド・テレビのエンターテインメント部門に勤務[6]し、自身の楽曲をテレビで披露する機会に恵まれた。

1960年代後半には、彼の歌はポーランドのテレビでヒットを飛ばすようになった。また、ジャック・ブレルをはじめ、ジョルジュ・ブラッサンスジルベール・ベコーヴラジーミル・ヴィソツキーなど、フランス語ロシア語で書かれた楽曲を翻訳し歌ったことでも人気を博した。

1970年代に入ると、オペラの台本も手掛け始める。また、「キャバレー」、「シカゴ」、「ジーザス・クライスト・スーパースター」など、海外のミュージカル作品をポーランド語に翻訳した[7]

キャリアをスタートさせた当初から、ポーランド人民共和国検閲に悩まされていたムウィナルスキは、1976年初頭、ポーランド人民共和国憲法の改正に抗議する知識人たちによる演説Memoriał 101」計画に参加。これによってムウィナルスキの名は当局のブラックリストに載せられ、公演を禁止される。1年半後に復帰を許された[8]

1980年代になるとポーランド政府は反政府運動を潰す為に戒厳令を導入。戒厳下でのテレビ出演を俳優たちがボイコットしないよう、上からの圧力をかけられたムウィナルスキは、ポーランド舞台芸術家協会の芸術評議会を脱退。1986年、これを理由にワルシャワ市長ミェチスワフ・デンビツキにより再び公演や出版活動を禁じられた[8]

検閲の問題にもかかわらず、1987年には生涯の功績に対して文化芸術大臣賞が授与された[6]

2017年3月15日に死去。同月、フランスの芸術文化勲章を授与された[9]

私生活

最初の妻は1964年、女優のアドリアナ・ゴドレフスカ[10]。二人の間に生まれた娘のアガタ女優やテレビ司会者として、ポーリナジャーナリストとして活躍しており、息子のヤンミュージシャンとして活躍している。

アドリアナと離婚後、別の女性と結婚(2008年に離婚)した[11]

生前、彼は双極性障害に苦しんでいた[12]

主な褒章・受賞

ディスコグラフィ

出典

  1. ^ Chodkowski 1995, pp. 564.
  2. ^ Polskie Radio 2011.
  3. ^ a b Michalski 2008.
  4. ^ Informacje ogólne - Wydział Polonistyki
  5. ^ Michalski 2008, pp. 18–19, 27.
  6. ^ a b Szałagan 1997, pp. 446.
  7. ^ Kowalczyk 2014, „Na scenie i ekranie”.
  8. ^ a b Kowalczyk 2014, „Róbmy swoje”.
  9. ^ a b Wojciech Młynarski został odznaczony francuskim Orderem Sztuki i Literatury - Polska Times
  10. ^ Tygodnik „Życie na Gorąco” nr 3, 21 stycznia 2016, s. 16–17.
  11. ^ Wojciech Młynarski - Filmweb
  12. ^ Jak sam przyznał w wiele lat później, pierwsze objawy zauważył u siebie już w latach 70.: „Ja już w czasie pisania Henryka VI stwierdziłem objawy, które potem zdiagnozowano, że jestem chory na tak zwaną chorobę maniakalno-depresyjną. To znaczy, że mam okresy wzmożonego dobrego samopoczucia i mam okresy depresyjne. To choroba, którą się leczy, i na którą choruję do dziś”[3]
  13. ^ a b c Donajczyk 2008, § 1–21.
  14. ^ a b M.P. z 2000 r. nr 17, poz. 369
  15. ^ a b Medale zasłużony kulturze „Gloria Artis” dla wybitnych polskich artystów
  16. ^ a b Laureaci XLV KFPP 2008 - Urząd Miasta Opola
  17. ^ a b title=Fryderyk 2011 – Laureaci - zpav.pl
  18. ^ a b M.P. z 2011 r. nr 107, poz. 1077

参考文献




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