ヴァーゲーラー朝
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1206年、アイバクは北インドにデリー・スルターン朝の奴隷王朝を樹立し、領域的には北インド最大の勢力となった。だが、中央インドやラージャスターン地方を中心に攻撃を行ったため、グジャラートではチャウルキヤ朝の支配が続いた。 しかし、1197年のアイバクのアナヒラパータカの占領は、王朝の権威に傷をつける形となり、1210年の前後にビーマ2世はジャヤンタシンハという人物に王位を奪われている。 1223年から1226年の間に、ビーマ2世は王位を奪還したものの、ラージャスターン南部の封臣らが反乱を起こしたり、デカンのヤーダヴァ朝の侵略も受けた。ビーマ2世は宰相ラヴァナプラサーダの助力でこの危機を回避したが、彼はチャウルキヤ朝の傍系ヴァーゲーラー族の出身で、息子ヴィーラダヴァラとともにドールカーに領地をもち、強大な封臣勢力を構成していた。 1241年頃にビーマ2世が死ぬと、息子のトリブヴァナパーラが継いだが、1243年頃にヴィーラダヴァラの息子ヴィーサラによって王位を奪われた。これにより、王位はヴァーゲーラー族に移り、多くの歴史家はこれを「ヴァーゲーラー朝」と呼んでいるが、彼らはチャウルキヤ朝を自称した。 チャウルキヤ朝はグジャラートを支配し続けたが、最盛期の勢力を回復するには至らず、北方の奴隷王朝とは戦わず、むしろパラマーラ朝やヤーダヴァ朝とよく争った。だが、チャウルキヤ朝におけるジャイナ教と商業の発展は、ソーランキー朝とのときと同様にめざましかった。ヴィーラダヴァラの大臣であったジャイナ教徒ヴァストゥパーラとテージャパーラの兄弟はその例で、13世紀のジャイナ教寺院を建立したことで知られ、アーブー山やギルナール山のジャイナ教寺院群へも多く貢献した。 商業の面でも、モンゴル帝国がユーラシア統合したことで、インドの交易路がさかんとなり、ソームナートといったグジャラート沿海部の都市のみならず、首都アナヒラパータカなど内陸部の都市も重要視され、前代よりも商業的繁栄を享受した。商人の活動は商業にとどまらず、都市は大商人らが事実上支配し、ときには政府の財務役人となることもあった。 一方、1290年にデリー・スルターン朝では、奴隷王朝からハルジー朝へと交代し、1196年にアラー・ウッディーン・ハルジーが即位すると、この平和な状況も終わることとなる。ハルジー朝はモンゴル方面からの侵入が激化したことで、不安定な北西方面の陸路より、むしろインド洋に面したグジャラートの海岸地帯の海路に交易路を見出していた。 チャウルキヤ朝の大臣マーダヴァはひそかにハルジー朝と通じており、1299年にハルジー朝の将軍ウルグ・ハーンとヌスラト・ハーンの軍が、その手引きでグジャラートに侵入することとなった。チャウルキヤ王カルナ2世はアーシャーパッリーでこれを迎撃したが敗れ、首都アナヒラパータカは落とされ、デカンのヤーダヴァ朝へと亡命した。 だが、ハルジー朝はグジャラートに軍や長官を置かずにデリーへ撤退したため、カルナ2世はアナヒラパータカに戻り、統治復帰した。のちにアラー・ウッディーンの息子に娘を妃として送ることを約束した。 しかし、カルナ2世が謀反を企てているという情報が流れるようになり、1304年にハルジー朝は警告もなくグジャラートへと侵入した。カルナ2世はこの突然の進軍に驚き、首都アナヒラパータカを捨て、再びヤーダヴァ朝へと亡命し、王朝は滅亡した(1306年にカルナ2世は死亡した)。 その後、グジャラートはデリー・スルターン朝の支配下に置かれ、再び独立した王朝ができるのは、16世紀初頭にグジャラート・スルターン朝が成立したときだった。
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