ソーランキー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/22 04:46 UTC 版)
西インドのグジャラートは、プラティーハーラ朝の成立まもなく、その支配下にあった。 だが、10世紀半ば、その封臣(サーマンタ)だったチャウルキヤ族のムーララージャ1世はアナヒラパータカを占拠し、これを首都に独立した。 だが、11世紀初頭にアフガニスタンのイスラーム王朝であるガズナ朝が北インドに侵入し、1018年に主家のプラティーハーラ朝は滅ぼされ、グジャラートにもその脅威が及ぶこととなった。 1025年末から翌1026年にかけて、ガズナ朝の軍勢がグジャラートに侵入し、首都アナヒラパータカを落とし、ヒンドゥーの聖地であるカーティヤーワール半島のソームナート寺院を略奪した。この略奪により、チャウルキヤ朝は多くの富を持ち去られたが、このことはペルシア語献が語るだけで、奇妙にもこのことはインド側の年代記や刻文に記されていない(汚点として残さなかったとする説もある)。 チャウルキヤ朝はほどなく復興し、ジャヤシンハの治世にカーティヤーワール半島全域を併合してグジャラート全土に支配を固めている。ジャヤシンハ・シッダラージャはカーティヤーワール半島の海賊を討ち、農業や手工業生産の中心であるグジャラート北部とカーティヤーワール半島沿岸部を結ぶ道路を建設し、同地沿岸部をインド交易の主要地へと発展させた。 クマーラパーラの時代、チャウルキヤ朝は最盛期を迎えたが、ジャイナ教の導師ヘーマチャンドラによって、同時にヒンドゥー教からジャイナ教への転換も行われた。ヘーマチャンドラは先王の代からすでに信頼を得ており、多くの典作を行っていたが、クマーラパーラのもとでも重用され、彼をヒンドゥー教からジャイナ教へと改宗させることに成功している。クマーラパーラがジャイナ教に改宗したことで、民衆、特に商人らにジャイナ教が広まり、王朝の庇護のもと広まっていった。 11世紀後半、ムーララージャ2世の時代、ゴール朝の勢力が北インドに侵略してグジャラートに迫った。だが、1178年にパラマーラ朝やチャーハマーナ朝の軍勢と連携し、アーブー山麓のカーサブラタでこれを破っている。 1196年、ビーマ2世はメール族と協力してアジメールにいたゴール朝の武将アイバクを包囲したが、ガズニーからの援軍により危機を脱し、翌1197年にアイバクはグジャラートへと進軍した。ビーマ2世はアイバクとアーブー山脈のカーサフラダで対峙し、アイバクは前回の敗北で攻撃を思いとどまったが、チャウルキヤ朝側は山を下りて有利な立場を捨てたため、野戦に持ち込まれて敗北した。 そのため、ビーマ2世は逃げ、首都アナヒラパータカも落とされ、アイバクはこの地に長官を任命している。とはいえ、1201年にビーマ2世はアナヒラパータカを取り戻し、王朝はしばらく余命を保つこととなる。
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