ローヌ川への進軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:16 UTC 版)
「ハンニバルのアルプス越え」の記事における「ローヌ川への進軍」の解説
ピレネーを越えてからローヌ川までの進軍に関しては、明確なことは分かっていない。7月および8月の2ヶ月間、ピレネー山中で敵対的な部族を鎮圧してきたカルタゴ軍にとって、その後の進軍は快調になったと思われる。イベリア半島の歴史を見ると、この地域の先住民が侵略軍に対して激しい抵抗を行ってきた多くの例がある。ナポレオンに対する半島戦争はその一例であるが、この地域の複雑な地形は、平坦地と比較して抵抗運動を行うのに大きな利点があった。原住民のローマ、カルタゴ、ハンニバル軍の侵攻に対する姿勢は様々であった。いくつかの部族はハンニバルに対して友好的であったが、逆にいくつかは非友好的であった。このようにの部族間の意見が統一されていなかったにも関わらず、戦闘が行われたという記録が無いことから、これら地域の先住民に対するハンニバルの手腕は優れていたと思われる。ハンニバルは自国の領土を進軍するときのように各部族に対処した。 マッシリア(Massilia、現在のマルセイユ)は、ローヌ川左岸(東岸)にあるギリシャ人の交易拠点として栄えており、ローマの影響下にあった時期もあり、ローマ人もそこに入植し定住していた。マッシリアはカルタゴ軍の到着を恐れ、ローマに対してローヌ川左岸(東岸)の諸部族に影響を与えるように求めていた。ハンニバルのローヌ川渡河はローマにとって問題であったため、ローマもこれに応えた。 紀元前218年の執政官(コンスル)の一人であるプブリウス・コルネリウス・スキピオは、元老院からエブロ川とピレネー山脈でハンニバルと対決するよう命令を受けていた。この目的のために、元老院はプブリウスに60隻の艦船を与えていた。しかし、事態の推移はそれより早かった。プブリウスがポー川に到着したとき、新たに征服したガリアで暴動があった。ポー川流域には多くの殖民都市が建設されていたが、ボイイ族とインスブリ族は、ハンニバルが向かってきていることを知ると、再度反乱を起こした。元老院はイベリア半島に派遣を予定したローマ軍団を、法務官(プラエトル)に率いさせてポー川に派遣するよう命令した。イベリア遠征用には新たに軍団が召集されることとなった。軍団を新しく設立することは、ローマにとって簡単なことであった。軍団兵士として適切な市民は多く、政府はより多くの兵士が必要なことを市民に知らせるだけでよかった。ローマ市民にとって従軍は義務であった。 一旦ローマに戻ったプブリウスはこの新設軍団を率いて - 事態の緊急性よりははるかに遅かったが - ローマ海軍の軍港であるオスティア・アンティカを出帆した。当時は羅針盤が無かったため、航海は陸地沿いに行い、夜間には補給のために停泊する必要があった。プブリウスは、艦隊をイタリア半島の西岸沿いに北上させ、その後イベリア半島に向かって西に転進し、マッシリアに入港するように命じた。この際のオスティアからマッシリアまでの行程は5日間であった。プブリウスはハンニバルがまだカタロニアにいると予想していたが、実際にはローヌ川対岸の北方4日間の距離にまで迫っていることを知らされ驚愕した。
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