ローザンヌ受賞以後
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二山の受賞は日本でも大きな話題となり、テレビニュースにもなっていたため本人がびっくりしたほどであった。3月20日には総理大臣安倍晋三を訪問し、その後文化関係者文部科学大臣表彰を受けた。その他にも、いろいろなイベントや舞台への出演機会が増えて生活が一変した。その中で二山自身が印象に残っているイベントは、2014年3月28日の読売巨人軍創設80周年記念セレモニーで、東京ドームの大観衆の目前で『ボレロ』を踊ったことと、同年9月に「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で小澤征爾の指揮するオーケストラと共演したことであった。オーケストラの生演奏で踊るのは「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が初めてだったが、小澤から「歌いながら踊りなさい」とアドバイスを受け、会場の雰囲気も温かかったため気持ちよく踊ることができたという。 2014年4月には、ニューヨークで開催されるユース・アメリカ・グランプリにも挑戦した。ユース・アメリカ・グランプリは1999年の創設と歴史こそ浅いものの、マシュー・ゴールディング(英語版)やセルゲイ・ポルーニンなどのスターダンサーを輩出した実績を持つコンクールであった。二山はローザンヌでの映像を見直して、塚田から数秒ごとに「ダメ出し」されるという厳しい指導を受けた。塚田は当時の二山について「スピード感が足りない。生徒としてはきちんとしているが、お客さんを喜ばせるには盛り上がりに欠ける」と指摘し、二山も「(ローザンヌ1位受賞で)少しは自信が持てましたが、外国のダンサーと比べると容姿の面で不利だと分かった。基礎に戻って一から稽古しなくてはいけないと思いました」と答えていた。 2つのコンクールは全く雰囲気が違い、ローザンヌが将来性を重視する方針をとってクラスレッスンも含めて審査されるのに対して、ユース・アメリカ・グランプリでは舞台上でのパフォーマンスだけがすべてであった。ローザンヌ1位受賞の事実が二山のプレッシャーにもなったが、順位は気にせず踊りに集中してシニアの部で金賞を受賞した。ただし、二山は「ローザンヌのときほどは思った通りに踊れなかったのが少し残念でした」と反省の言葉も述べていた。 二山はスカラシップでの留学先にサンフランシスコ・バレエ・スクール(en:San Francisco Ballet School)を選び、2014年9月から2015年5月末まで約9か月間留学した。英語もよくわからないままで現地に赴き、到着してすぐにリハーサルが始まったときには焦ったという。「トレイニー・プログラム」という高レベルの生徒を集めたクラスに入り、サンフランシスコバレエ団(en:San Francisco Ballet)の公演には小規模のパフォーマンスを含めていくつか出演した。プロの踊りに間近で接したことは、二山にとっての大きな収穫になった。サンフランシスコバレエ団の舞台出演には、『ロミオとジュリエット』での友人役もあった。 留学終了後にはサンフランシスコバレエ団から入団の誘いがあったというが、ダンサーとしてさらに高みを目指し、見聞を広めてできれば高校に復学もしたいという本人の意思で日本に戻った。今後の予定について、二山は「日本を拠点に、いろいろな舞台で経験を積んでいきたいです」と述べている。将来どんな役でもこなせるようにとクラシックだけではなくコンテンポラリー作品にも取り組みたいと希望して、「何でも吸収したいと思っています」と発言した。2015年の夏には、キエフ・バレエ団の田北志のぶプロデュースによる『グラン・ガラ』公演に出演した。ボリショイ、マリインスキー、キエフなどのトップダンサーたちとの競演によって「せっかくの機会なので、彼らの踊りを見て、ロシアのバレエ・スタイルを学べたらいいなと思っています」と意欲を見せた。2016/2017年シーズンから、ワシントン・バレエ(en:The Washington Ballet)のスタジオカンパニーに入団が決定した。
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