レフチェンコ証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 07:14 UTC 版)
1979年10月、ノーボスチ通信の東京特派員だったスタニスラフ・レフチェンコが、自身の正体をKGBの少佐であると明かして駐日アメリカ合衆国大使館に亡命申請をし、即座に認められアメリカへ亡命した。その後、アメリカではレフチェンコを議会に招喚し秘密聴聞会を行った。1982年7月14日、レフチェンコは米国下院の秘密聴聞会で日本のジャーナリストを操っていたと証言。さらに「大手新聞社の工作員1人はオーナーがきわめて信頼を寄せる人物であり、ソ連がこの新聞を通じて自国に有利な政治状況を作るのにその工作員を利用した」とし、「彼(工作員)は『周恩来が遺書を残している』という記事を書いたが、これこそ1970年代にソ連が捏造したものの中で最も成功したケースであった」と上記山根が書いた「今日のレポート」を指し示しながら証言した。
※この「レフチェンコ証言」の解説は、「山根卓二」の解説の一部です。
「レフチェンコ証言」を含む「山根卓二」の記事については、「山根卓二」の概要を参照ください。
レフチェンコ証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 06:56 UTC 版)
毎日新聞時代 1982年、アメリカ下院秘密公聴会でのスタニスラフ・レフチェンコ(「ノーボエ・ブレーミャ」東京支局長、元KGB少佐)の証言をスクープ。その公聴会においてレフチェンコが「周恩来の遺言」なる記事をサンケイ新聞編集局長・山根卓二に工作して紙面に掲載させることに成功したとの証言を行っていたため、山根は退社を余儀なくされた。 サンケイ新聞時代 産経新聞移籍後の1992年に、再びレフチェンコ証言をもとに旧ソ連から日本社会党への資金流入について追及する記事を書いたが、この追及報道は翌年5月に急遽終了した。同時期、文藝春秋1993年6月号におけるレフチェンコのインタビュー中で、「サンケイ新聞にも工作を行い、当時の編集局長を取り込むことに成功した」との発言が掲載され、過去に古森が毎日新聞時代にスクープした問題が蒸し返された形となった。産経新聞社は、このレフチェンコ発言に対する反論を1993年5月12日の朝刊に当時の編集局次長、住田良能名で掲載し「彼の発言を多少なりとも信じては気の毒なことになる」とまで書いて、その証言を全否定した。以後レフチェンコ証言に基づく記事は掲載されず報道は終了した。その後、1994年に久保紘之編集委員による特集「新謀略史観」でレフチェンコ証言を「伝聞に基づくものであった」と改めて全否定している。詳細は「レフチェンコ事件」を参照
※この「レフチェンコ証言」の解説は、「古森義久」の解説の一部です。
「レフチェンコ証言」を含む「古森義久」の記事については、「古森義久」の概要を参照ください。
- レフチェンコ証言のページへのリンク