レフティ・グローブの引退とは? わかりやすく解説

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レフティ・グローブの引退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:18 UTC 版)

1941年のメジャーリーグベースボール」の記事における「レフティ・グローブの引退」の解説

7月25日レフティ・グローブが、ピート・アレクサンダー以来17年ぶり史上12人目となる通算300勝を達成した1925年から7年連続最多奪三振取り1934年までに最多勝4回、1939年まで最多勝率5回と最優秀防御率4年連続含めて通算9回取り1930年投手の全タイトル獲得した史上最高の左投手」は41歳となったこの年引退した。彼はとことん敗北を嫌う選手負け投手になった時は手が付けられないほどロッカールーム荒れ狂ったと言われるアスレチックス時代にはあのコニー・マック監督にも文句言ったという。監督作戦拙さから敗戦招いたとして「お前さんピーナッツぶつけてやりたい」と吠えるとコニー・マックは「俺もお前さんピーナッツ投げつけてやりたい」とやり返したという。後にコニー・マック史上最高のサウスポーはと記者問われて、ルーブ・ワッデルと共にレフティ・グローブの名を挙げた。しかしそれでもマック1933年にまだ絶頂期レフティ・グローブ125000ドルレッドソックストレードした。財政難というチーム事情からだが放出後事あるごとにグローブの話をして褒めたたえたという。 レフティ・グローブ引退するこの年サウスカロライナ州のブレスビテリアン大学野球部一人青年がいた。熱烈にコニー・マック監督尊敬し、しかも同じ大学野球部コーチが元アスレチックス遊撃手だったエリック・マックネアで、7年前の1934年秋にコニー・マック監督ベーブ・ルースルー・ゲーリッグらと一緒に日本訪問した大リーグ選抜チーム一員でもあった。そしてこのマックネアの紹介在学中アスレチックス訪ねてきた。背が高く痩せていた身体からバネを効かせた快速球投げる彼を見てコニー・マックは「これはレフティ・グローブ再来だ」と惚れ込んだ。しかしこのグローブそっくりの青年がまだ大学生であることを知って中退して入団希望する彼に「いいか、中退はやめなさい。大学卒業してからうちの球団に来なさい。それまで君の契約書ユニフォーム揃えて首を長くして待っているよ」と伝えて、この青年大学戻っていった。そして次に彼がアスレチックス事務所に来たのはそれから5年後であった。そして夢にまで見たメジャーリーグでの初登板はそれから2年後1948年4月開幕であった7年かけてやっとアスレチックスマウンド上がったこの青年壮絶なカムバック物語多くアメリカ人感動させた。この背が高くて痩せた身体の青年の名はルー・ブリッシー。コニー・マックが彼と再会するのは1946年7月戦後1年過ぎていた。

※この「レフティ・グローブの引退」の解説は、「1941年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「レフティ・グローブの引退」を含む「1941年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1941年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。

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