レフティ・グローブの引退
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「1941年のメジャーリーグベースボール」の記事における「レフティ・グローブの引退」の解説
7月25日、レフティ・グローブが、ピート・アレクサンダー以来17年ぶり史上12人目となる通算300勝を達成した。1925年から7年連続最多奪三振を取り、1934年までに最多勝4回、1939年までに最多勝率5回と最優秀防御率を4年連続を含めて通算9回取り、1930年に投手の全タイトルを獲得した「史上最高の左投手」は41歳となったこの年に引退した。彼はとことん敗北を嫌う選手で負け投手になった時は手が付けられないほどロッカールームで荒れ狂ったと言われる。アスレチックス時代にはあのコニー・マック監督にも文句を言ったという。監督の作戦の拙さから敗戦を招いたとして「お前さんにピーナッツをぶつけてやりたい」と吠えるとコニー・マックは「俺もお前さんにピーナッツを投げつけてやりたい」とやり返したという。後にコニー・マックは史上最高のサウスポーはと記者に問われて、ルーブ・ワッデルと共にレフティ・グローブの名を挙げた。しかしそれでもマックは1933年にまだ絶頂期のレフティ・グローブを12万5000ドルでレッドソックスにトレードした。財政難というチーム事情からだが放出後も事あるごとにグローブの話をして褒めたたえたという。 レフティ・グローブが引退するこの年にサウスカロライナ州のブレスビテリアン大学の野球部に一人の青年がいた。熱烈にコニー・マック監督を尊敬し、しかも同じ大学の野球部コーチが元アスレチックス遊撃手だったエリック・マックネアで、7年前の1934年秋にコニー・マック監督やベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらと一緒に日本を訪問した大リーグ選抜チームの一員でもあった。そしてこのマックネアの紹介で在学中にアスレチックスを訪ねてきた。背が高く痩せていた身体からバネを効かせた快速球を投げる彼を見て、コニー・マックは「これはレフティ・グローブの再来だ」と惚れ込んだ。しかしこのグローブそっくりの青年がまだ大学生であることを知って、中退して入団を希望する彼に「いいか、中退はやめなさい。大学を卒業してからうちの球団に来なさい。それまで君の契約書とユニフォームを揃えて首を長くして待っているよ」と伝えて、この青年は大学に戻っていった。そして次に彼がアスレチックスの事務所に来たのはそれから5年後であった。そして夢にまで見たメジャーリーグでの初登板はそれから2年後の1948年4月の開幕日であった。7年かけてやっとアスレチックスのマウンドに上がったこの青年の壮絶なカムバックの物語は多くのアメリカ人を感動させた。この背が高くて痩せた身体の青年の名はルー・ブリッシー。コニー・マックが彼と再会するのは1946年7月で戦後1年が過ぎていた。
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