レディ・イン・サテン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:59 UTC 版)
「ビリー・ホリデイ」の記事における「レディ・イン・サテン」の解説
1956年、ビリーはルイ・マッケイと共に麻薬不法所持で逮捕される。新たな裁判が予定される。彼女の自叙伝《レディ・シングス・ザ・ブルース》が出版される時期―この自叙伝は実質的には彼女のファンであった新聞記者ウィリアム・ダフティが、それまでに行なったインタビューを編集し直したものだった―、彼女は再度解毒治療を試みる。だが、彼女の健康は次第に蝕まれてゆく。彼女の新しいピアニストのコーキー・ヘイルは後にビリーの苦渋の様子を証言している。憔悴、麻薬とアルコールによる頽廃、いつもは長袖で隠してはいるが遂には手まで覆うようになった注射針の痕、疲労、体重の減少、舞台前の酔態。マッケイと共に裁判に掛けられると想像しただけで彼女は恐怖に陥る。そして、そのマッケイは徐々に彼女から遠ざかって行った。 彼女はニューポートのフェスティバルに登場し、またCBSテレビの〈ザ・サウンド・オヴ・ジャズ〉にも出演する。主な共演者はレスター・ヤング、コールマン・ホーキンス、ベン・ウェブスター、ジェリー・マリガンそしてロイ・エルドリッジ。また若き日のマル・ウォルドロンが彼女の新たな伴奏者として登場する。 1957年3月28日、ルイ・マッケイとビリーはメキシコで結婚するが、これは裁判で互いに不利なことを証言しないためであった。いずれにしても、二人の間は既に終っていた。判決(12ヶ月の執行猶予)が言い渡されると、マッケイはビリーの許を去り、ビリーは離婚手続きを開始する。 1958年2月、彼女は新曲ばかりを揃えた『レディ・イン・サテン(英語版、フランス語版、ハンガリー語版)』を録音する。伴奏は編曲を担当したレイ・エリス(英語版)が率いるオーケストラだった。それは胸を刺すようなアルバムだった。 1959年録音の『ビリー・ホリデイ』とだけ題された最後のアルバムにも匹敵するような悲痛さを感じさせた。彼女はまた1958年10月のモントルー・ジャズ・フェスティバルにも参加し、11月には二度目のヨーロッパ・ツアーを行なう。イタリアで彼女の唄は野次で迎えられ、公演は切り上げられた。パリでは、オリンピアでの公演をようやくのことで勤めたものの、彼女は憔悴し切っていた。ツアーは風前の灯だった。彼女はマル・ウォルドロンとベースのミシェル・ゴードリーとともにマース・クラブの出演を引き受ける。聴衆はみな彼女の唄に惹きつけられ、ビリーはここで成功を収める。マース・クラブを埋めつくした聴衆の中にはジュリエット・グレコ、セルジュ・ゲンスブールといった当時の有名人たちの顔もあった。 当時の記憶を作家フランソワーズ・サガンはこう綴っている。 《 それはビリー・ホリデイだった。だが、彼女ではなかった。痩せ細り、年老い、腕は注射針の痕で覆われていた。……眼を伏せて歌い、歌詞を飛ばした。まるで嵐に揉まれる船上で手すりにでも掴まるかのようにピアノにもたれた。集まった人々が拍手を送ると、彼女は聴衆に向って皮肉とも哀れみともとれる眼差しを投げかけるのだった。それは自分自身に対する容赦ない眼差しでもあったのだろう。 》
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