ルブルックの旅行記とは? わかりやすく解説

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ルブルックの旅行記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 06:48 UTC 版)

オグルトトミシュ」の記事における「ルブルックの旅行記」の解説

1254年フランス王ルイ9世の命によってモンケ・カアンの下に訪れたウィリアム・ルブルックは、モンケの妃たちにも面会しており、彼女らについて記録残している。 この二人モンケと妃)の後ろ寝椅子には、シリン(ツィリナ)という大変器量の悪い、もう一人前になった娘が、小さい子供数人一緒に座っていましたと申しますのは、この住居以前カアン夫人一人キリスト教徒だった女(オグルトトミシュ)の持ち物で、モンケマング)がこれを非常に可愛がり、それとの間に生まれたのがこの娘だったからです。モンケその他に上述の若い夫人娶ったのですが、その後でも、この娘は、もと自分母親のものだったその宮廷全体女主人だったのです。…中略わたしども次に訪れた第三の家は、先に述べたキリスト信者夫人がもと住んでいたところでした。この夫人死んだ時、その後継いだのは、例の若い少女でしたが、この少女は、カアンの娘ともども私ども喜んで迎えてくれ、その家にいる者は残らず、恭しく十字架礼拝しました……。 — ウィリアム・ルブルック、『東方諸国旅行記』 この旅行記ではルブルック訪れた頃にはオグルトトミシュは既に亡くなっていたこと、オグルトトミシュその後継者、娘のシリンといった関係者がみなネストリウス派キリスト教信仰していたことが記されている。

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ルブルックの旅行記

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クトクタイ」の記事における「ルブルックの旅行記」の解説

1254年フランス王ルイ9世の命によってモンケ・カアンの下に訪れたウィリアム・ルブルックモンケの妃たちにも面会しており、クトクタイ(コトタ)についても記録残している。 そのあくる日つまり主の御公現の祝日から八日目その夜明け前にネストリウス教の司祭たちは残らず礼拝堂集まって板をたたきました。そして、荘重な朝課を誦え、祭服まとって、提香炉と香とを用意しました司祭たちがその教会の前の中庭待っているあいだに、コトタ・カテン(Qutuqtai qatun>Cotota Caten)‐カテン(Qatun>Caten)というのは貴族夫人のこと、コトタはその名前です‐という第一夫人が、ほかの幾人かの婦人自分生んだ一番年上息子バルトゥ、他の幼い子供たちいっしょに礼拝堂入りました。かれらはネストリウス教のしきたりに従って、ひたいを床につけてひれ伏しました。ついで、全部の像に右手触りそのたびごとにその手接吻しました。それがすむと、教会内に列席するもの一人一人にその右手をさし出し与えました。これが、教会入ったときのネストリウス教徒しきたりだからです……。 — ウィリアム・ルブルック、『東方諸国旅行記』 この旅行記では『集史』と同様にクトクタイ(コトタ)がモンケの第1皇后であったこと、バルトゥの母であったこと、ネストリウス派キリスト教信仰していたことが記されている。

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ルブルックの旅行記

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クタイ」の記事における「ルブルックの旅行記」の解説

1254年フランス王ルイ9世の命によってモンケ・カアンの下に訪れたウィリアム・ルブルックは、モンケの妃たちにも面会しており、クタイコタ)についても記録残している。 [29章]これにつづいてわたしどもは、コタ(=クタイ)という第二夫人宮廷行きましたこの女異教徒で、わたしども会ったとき、病気臥せっておりました例の修道僧夫人寝椅子から起こし三度跪き、ひたいを床につけて十字架礼拝させました修道僧十字架をもって住居西側に、夫人東側立ったのです。これがすむと、位置をかえて、修道僧十字架とともに東側へ、夫人西側へうつりました。それから、夫人大層弱っていて、立っているのがやっとという有様なのに、修道僧横柄な態度夫人に、もう一度ひれ伏しキリスト信者しきたりに従って東面して十字架三度礼拝するよう命じ夫人そのとおりしました修道僧はまた夫人に、自分十字を切るのを教えました。[32章]そのころ、先に申し上げましたカアン夫人病気ぶりかえし修道僧呼びよこしました。修道僧行きたがらず、「あの夫人またまた異教徒たちを呼びつけている。もしできるというなら、そのものたちに治療させたらいいだろう。儂はもう行かない」と返事しました。…中略明くる日カアンの全オルダ移動しましたが、病人のこの夫人幕営はあとに残りました中略…丁度その時激しい風が起こって、そのあたり全域吹きまくり、まるで悪魔どもがその上の方を駆け抜けているのではないか、と思われました。そしてしばらくすると、例の夫人亡くなったという報せ届きました…。 — ウィリアム・ルブルック、『東方諸国旅行記』 この旅行記では『集史』と同様にクタイコタ)がモンケの第2皇后であったこと、偶像崇拝者(仏教徒?)であったこと、1254年に病にあって亡くなったことが記されている。

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