ルブルックの旅行記
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「オグルトトミシュ」の記事における「ルブルックの旅行記」の解説
1254年、フランス王ルイ9世の命によってモンケ・カアンの下に訪れたウィリアム・ルブルックは、モンケの妃たちにも面会しており、彼女らについて記録を残している。 この二人(モンケと妃)の後ろの寝椅子には、シリン(ツィリナ)という大変器量の悪い、もう一人前になった娘が、小さい子供数人と一緒に座っていました。と申しますのは、この住居は以前はカアンの夫人の一人でキリスト教徒だった女(オグルトトミシュ)の持ち物で、モンケ(マング)がこれを非常に可愛がり、それとの間に生まれたのがこの娘だったからです。モンケはその他に、上述の若い夫人を娶ったのですが、その後でも、この娘は、もと自分の母親のものだったその宮廷全体の女主人だったのです。…中略… わたしどもが次に訪れた第三の家は、先に述べたキリスト信者の夫人がもと住んでいたところでした。この夫人が死んだ時、その後を継いだのは、例の若い少女でしたが、この少女は、カアンの娘ともども、私どもを喜んで迎えてくれ、その家にいる者は残らず、恭しく十字架を礼拝しました……。 — ウィリアム・ルブルック、『東方諸国旅行記』 この旅行記ではルブルックが訪れた頃にはオグルトトミシュは既に亡くなっていたこと、オグルトトミシュやその後継者、娘のシリンといった関係者がみなネストリウス派キリスト教を信仰していたことが記されている。
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ルブルックの旅行記
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1254年、フランス王ルイ9世の命によってモンケ・カアンの下に訪れたウィリアム・ルブルックはモンケの妃たちにも面会しており、クトクタイ(コトタ)についても記録を残している。 そのあくる日つまり主の御公現の祝日から八日目、その夜明け前に、ネストリウス教の司祭たちは残らず礼拝堂に集まって板をたたきました。そして、荘重な朝課を誦え、祭服をまとって、提香炉と香とを用意しました。司祭たちがその教会の前の中庭で待っているあいだに、コトタ・カテン(Qutuqtai qatun>Cotota Caten)‐カテン(Qatun>Caten)というのは貴族夫人のこと、コトタはその名前です‐という第一夫人が、ほかの幾人かの婦人、自分の生んだ一番年上の息子バルトゥ、他の幼い子供たちといっしょに礼拝堂に入りました。かれらはネストリウス教のしきたりに従って、ひたいを床につけてひれ伏しました。ついで、全部の像に右手で触り、そのたびごとにその手に接吻しました。それがすむと、教会内に列席するもの一人一人にその右手をさし出し与えました。これが、教会に入ったときのネストリウス教徒のしきたりだからです……。 — ウィリアム・ルブルック、『東方諸国旅行記』 この旅行記では『集史』と同様にクトクタイ(コトタ)がモンケの第1皇后であったこと、バルトゥの母であったこと、ネストリウス派キリスト教を信仰していたことが記されている。
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1254年、フランス王ルイ9世の命によってモンケ・カアンの下に訪れたウィリアム・ルブルックは、モンケの妃たちにも面会しており、クタイ(コタ)についても記録を残している。 [29章]これにつづいてわたしどもは、コタ(=クタイ)という第二夫人の宮廷に行きました。この女は異教徒で、わたしどもの会ったとき、病気で臥せっておりました。例の修道僧は夫人を寝椅子から起こし、三度跪き、ひたいを床につけて十字架を礼拝させました。修道僧は十字架をもって住居の西側に、夫人は東側に立ったのです。これがすむと、位置をかえて、修道僧は十字架とともに東側へ、夫人は西側へうつりました。それから、夫人が大層弱っていて、立っているのがやっとという有様なのに、修道僧は横柄な態度で夫人に、もう一度ひれ伏し、キリスト信者のしきたりに従って東面して十字架を三度礼拝するよう命じ、夫人はそのとおりしました。修道僧はまた夫人に、自分で十字を切るのを教えました。[32章]そのころ、先に申し上げましたカアンの夫人の病気がぶりかえし、修道僧を呼びによこしました。修道僧は行きたがらず、「あの夫人はまたまた、異教徒たちを呼びつけている。もしできるというなら、そのものたちに治療させたらいいだろう。儂はもう行かない」と返事しました。…中略…明くる日、カアンの全オルダは移動しましたが、病人のこの夫人の幕営はあとに残りました…中略…丁度その時、激しい風が起こって、そのあたり全域を吹きまくり、まるで悪魔どもがその上の方を駆け抜けているのではないか、と思われました。そしてしばらくすると、例の夫人が亡くなったという報せが届きました…。 — ウィリアム・ルブルック、『東方諸国旅行記』 この旅行記では『集史』と同様にクタイ(コタ)がモンケの第2皇后であったこと、偶像崇拝者(仏教徒?)であったこと、1254年に病にあって亡くなったことが記されている。
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