ルブルックの記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 09:08 UTC 版)
彼の生涯はペルシア語や漢語資料にはほとんど記載がないため不詳である部分が多いが、幸いルイ9世より派遣されたルブルクのギヨーム修道士が、バトゥ、モンケの宮廷への旅中に先立ち彼のオルドを訪問しているため、その若干が知られている。 ヨーロッパや中東では、サルタクがキリスト教を信奉しているという噂があり、1253年にこの確認と十字軍への支援を求めてルイ9世はルブルクのギヨームを派遣しており、さらに翌1254年8月29日にはローマ教皇インノケンティウス4世が、サルタクが洗礼を受けたと言う知らせを聞いて、彼の許に書簡を送って祝意を表した。 ルブルクのギヨームによれば、サルタクのオルドはドン川中流域にありヴォルガ川から3日行程の距離にあったという。そこでサルタクは6人の夫人がおり、彼と一緒にいた長男にもまた2・3人の夫人がついていたといい、そのオルドも豪奢であったと報告している。ジュヴァイニーによればサルタクの子供がウラクチであったと述べているが、『集史』ではサルタクには子息がいなかったと述べており、資料間で食い違いが生じている。あるいはこの「長男」はそのウラクチである可能性もあるが、詳細は不明である。
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