ルター派の広まり
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「デンマーク=ノルウェーの宗教改革」の記事における「ルター派の広まり」の解説
詳細は「宗教改革」を参照 1517年にマルティン・ルターが「95ヶ条の論題」を発表し、宗教改革が始まり、その動きは1520年代にはデンマークにも達した(勿論、デンマーク内にも人文主義者のPoul Helgesenはルターと同様に長い間、ローマ・カトリック内部からの宗教改革を試みる動きはあった)。1525年にはAntrvorskovの司教であるハンス・タウセンはヴィボーでルター派の布教を開始した。数年後には現在のデンマーク王国領域に当たるユラン半島、フュン島、シェラン島といった地域にルター派の教えが広まっていった。フレゼリク1世は即位憲章(デンマーク語版)でルター派を弾圧することを誓約したものの、息子クリスチャンがルター派布教を領内で容認していたこと並びに嫁に新教徒であるドロテア・フォン・ザクセン=ラウエンブルクを迎えていたこと、娘のドロテア(en)をルター派のプロシア公アルブレヒトに嫁がせていたこともあり、弾圧には消極的であった。そのため、1526年、フレゼリク1世はヴィボーの市民にハンス・タウセンの庇護を命令していた。また、フレゼリク1世は、クリスチャン2世復位の動きに対抗するために、1526年、諸侯会議を開催し、宗教面ではデンマーク領内における司教などの高位聖職者の任命権者が従来のローマ教皇からルンド大司教(英語版)に変更され、ローマに拠出した聖職者承認の諸費用は国防費に転換することを決定し、ローマ教皇との関係を断絶し、「国家教会体制」を構築した。 1520年代後半になると、フレゼリク1世がルター派を弾圧することに消極的な態度をとったことから、市民が修道僧を攻撃するようになった。デンマーク国外に追放されたクリスチャン2世はデンマークの社会的に不安定な状態を利用し、自身とルター派の教義を広めるためのプロパガンダを発行した。 1533年4月、フレゼリク1世が亡くなったことにより、6月にデンマーク王国参事会(Rigsraadet)が開催され、新王を選出することになった。ルター派であるクリスチャン即位を支持したものは宮廷長官のモーエンス・ゴイェ(英語版)やマルメー市長のヨーアン・コック(デンマーク語版)など少数にとどまり、参事会の多数派を占める司教はルター派であるクリスチャンの即位に難色を示し、弟のハンス(ドイツ語版)を擁立した。その結果、参事会は決裂、新王即位の決定は1年後に延期されるとともに、司教は教区内で何を布教するかを決めることとなった。その上、ハンス・タウセンは異端であるということで糾弾され、シェラン島から追放されたが、ロスキレの司教は1カ月も経たないうちにハンス・タウセンを呼び戻した。 この国王選出決裂により、貴族と新興階級である市民の対立は明確なものとなった。参事会を通しての貴族政治に不満を持つコペンハーゲンやマルメーの市民はクリスチャン2世の復位を図ることとなった。この頃、ハンザ同盟の復権を図ったリューベック市長のユルゲン・ヴッレンヴェーバー(英語版)はデンマーク王国参事会と交渉し、デンマークとの同盟を模索していたが、デンマーク王国参事会は国王不在を理由にハンザ同盟との同盟を拒絶する一方、新興国ネーデルラント、スレースヴィ公国、ホルシュタイン公国と同盟した。そのため、ハンザ同盟は参事会に不満を持つコペンハーゲンやマルメーに接近していった。
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