ラ・ショーセ、シャルルヴァンヌ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/14 08:26 UTC 版)
「ブージヴァル」の記事における「ラ・ショーセ、シャルルヴァンヌ」の解説
ブージヴァルの領域には長く人が住んでいるが、最古の居住地は間違いなくブージヴァルより先にシャルルヴァンヌ集落である。シャルルヴァンヌの記録は9世紀以前からあるが、ブージヴァルについては13世紀以降である。 このセーヌ川の端に、宮宰カール・マルテルは川をせき止めダムや、漁場となる水門をつくらせ、この地はラ・ショーセ(La Chaussée)と呼ばれた。この建築物は創設者の名をとってCaroli Vennaと呼ばれ、漁師が暮らす村はChaussée-Charlevanne、単にシャルルヴァンヌと呼ばれた。村は成長し、川港ができた。川港には845年3月、パリ包囲に向かうヴァイキング船がやってきた。100人あまりのヴァイキングたちはシャルルヴァンヌの漁場に上陸した。彼らはこの地域を荒らし回った後、シャルル禿頭王の軍隊が到着すると逃亡した。この掠奪を記念して、川港は「悪しき港」を意味するMalportまたはMauportと名付けられた。シャルルヴァンヌにあった城、その後マルリーの機械が設置されることになる場所をノルマン人が攻略した。この城は要塞化され、地方を荒らし回り略奪してきた物を収めるのに用いられた。城にはその後ロロが住んだ。ノルマン人首長ロロがシャルル単純王との間のサン=クレール=シュル=エプト条約を締結した時期、ロロが単純王の娘ジゼルと結婚し、持参金としてネウストリア全土がノルマン人にもたらされた時期と同じ頃ではないかと見られている。 11世紀、ロベール敬虔王はシャルルヴァンヌのワインの十分の一税をサン=ジェルマン=アン=レー修道院へ、漁場の権利をサン=ドニ修道院へ寄進した。イングランド王ヘンリー1世との戦争のさなかであった12世紀、ルイ肥満王はシャルルヴァンヌに敵の襲撃を阻止するための城の建設を決めた。ところがサン=ジェルマン=アン=レー修道院が税収に固執したため、ルイ肥満王は建設計画をあきらめ、この地域にあった教会と十分の一税を修道士たちに寄進した。 1273年、フィリップ豪胆王は自らの領主裁判権を放棄し、シャルルヴァンヌの全ての道路と住宅に関する領主裁判権をサン=ドニ修道院に寄進した。シャルルヴァンヌのほぼ全体、リュエイユ、ラ・セル、クロワシーを封土とする2つの大修道院間で紛争が勃発した。これらの紛争は1336年に仲裁で解決された。 1346年、エドワード3世のパリ進軍の際にシャルルヴァンヌも襲われ燃やされた。この集落は灰と化して長い間廃墟のままにされ住む人もなく、数百年間再建されなかった。 15世紀、ルイ11世の側近ジョフロワ・クールがショーセ領主となった。クール家がショーセ領主を代々世襲した後、ブリソネ家に渡り、彼らは1719年まで領主であった。 16世紀、愛妾ガブリエル・デストレはラ・ショーセに家を所有していた。 17世紀から18世紀、ラ・ショーセの城はしばしば公証役場として使用された。現在のパヴィヨン・ド・ブロワ公園であるラ・ショーセにおいて、ルイ太陽王とモンテスパン侯爵夫人の庶子であるフランソワーズ・マリー・ド・ブルボンが育てられた。
※この「ラ・ショーセ、シャルルヴァンヌ」の解説は、「ブージヴァル」の解説の一部です。
「ラ・ショーセ、シャルルヴァンヌ」を含む「ブージヴァル」の記事については、「ブージヴァル」の概要を参照ください。
- ラ・ショーセ、シャルルヴァンヌのページへのリンク