ユトレヒト講和会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:06 UTC 版)
「ユトレヒト条約」の記事における「ユトレヒト講和会議」の解説
ロンドンでの交渉に続き、1712年1月29日にユトレヒトで講和会議が始まった。イギリスからは、ブリストル主教ジョン・ロビンソン(英語版)と駐ハーグ大使のストラフォード伯爵トマス・ウェントワースが代表として出席した。フランスの代表はユクセル侯、ニコラ・メナジェらの四名だった。オランダは予備条約を不承不承ながら認めて講和会議に代表を出したが、同じく反フランス・スペイン同盟軍に属していた神聖ローマ皇帝カール6世は、予備条約が拘束力を持たないことが保証されない限り代表派遣を拒否する立場をとった。後になってカール6世の要求が保証されたため、オーストリアは2月に代表を派遣した。その筆頭は宰相ジンツェンドルフ(ドイツ語版)であった。スペインは、まだフェリペ5世が王として承認されていなかったため、当初は全権大使を派遣しなかった。その他、サヴォイア公国とポルトガル王国が代表を派遣してきた。ポルトガルの代表はルイス・ダ・クーニャ(英語版)だった。 イギリス・オランダ・オーストリア(神聖ローマ帝国)の三国に対してフランス代表は、フェリペ5世のスペイン王位維持、善意に基づく西仏王冠合同の防止、あらゆる方面での原状回復(秘密予備条約でイギリスに与える特権は保障)といったフランス優位の和平案を提示して各国の反発を招き、講和会議は序盤から暗礁に乗り上げた。イギリスでは上院で野党ホイッグ党が講和よりも戦争継続を求める上奏分を上院で通過させた。これに対し以前からフランスとの交渉を担当していたトーリー党政権のボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョンは、フランスとスペインの王冠統一阻止が保証されることを前提条件として、フランスとの秘密交渉を進めた。まずフェリペ5世にフランス王位継承権を放棄させる案を出したが、これは王権神授説のもと血筋で絶対的に王位継承が行われるフランスにはなかなか認められなかった。続いて4月末、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世(スペイン王フェリペ2世の子孫)をスペイン王位につけ、フェリペ5世はシチリアとイタリアのスペイン領を支配する王となり、将来フランス王に即位してそれらをフランスに統合するという案も出た。ルイ14世もこれに好意的だったが、すでにスペイン王としての自覚を固めていたフェリペ5世は承諾しなかった。
※この「ユトレヒト講和会議」の解説は、「ユトレヒト条約」の解説の一部です。
「ユトレヒト講和会議」を含む「ユトレヒト条約」の記事については、「ユトレヒト条約」の概要を参照ください。
- ユトレヒト講和会議のページへのリンク