モータースポーツ黎明期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)
「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「モータースポーツ黎明期」の解説
ガソリン自動車の発明から5年ほど経ち、1890年代半ばになるとフランスを中心に自動車を使ったレースが行われるようになった。19世紀中のレースのほとんどはフランスで開催され、参加者もフランス勢が多数を占める中、ドイツのダイムラーとベンツの2社がそこに名を連ねる。高い完成度を持ったダイムラー製ガソリンエンジンは、フランスの自動車に搭載されて、市場においてもレースにおいても、フランス車をこの時点の主流の地位に押し上げた。 1894年7月22日、世界初のモータースポーツイベントとなるパリ・ルーアントライアル (英語版)が開催される。(→#自動車レースの始まり)ダイムラーがライセンスしたガソリンエンジンを搭載したプジョー・タイプ7(英語版)(ドライバーはアルベール・ルメートル(英語版))と、同じくダイムラー製エンジンをライセンス生産して搭載したパナール・エ・ルヴァソールの両車両が優勝を分け合った。 ベンツのガソリン自動車が1台参戦し、14位で完走した(ドライバーはロジェ)。 1895年6月11日、世界初の自動車レースとされるパリ・ボルドーレース(英語版)が開催される。ダイムラー製エンジン(ライセンス生産品)を搭載したパナール・エ・ルヴァソールが最初にゴールしたが、2シーターであったため違反となり3位に降格となる。 ベンツのガソリン自動車が1台参戦し、5位で完走した。 11月、アメリカ合衆国で初となる自動車レースがシカゴで開催される(シカゴタイムス・ヘラルドレース(英語版))。4台の自動車が出走し、唯一完走したベンツの車両が優勝した。 1896年ニースに住むオーストリア人実業家エミール・イェリネック(英語版)が、マイバッハと面識を得るとともに、「最高時速40㎞」を出せる車両を2台発注する。 1897年1月31日、ニース~ラ・テュルビー間(Course de côte Nice - La Turbie)の10.3マイル(約16.6㎞)で、正式なものとしては世界初となるヒルクライムレースが開催される。このレースにはライセンス生産されたダイムラーエンジンを搭載したルメートルのプジョー(6馬力)も参戦するが、蒸気自動車のド・ディオン・ブートン(英語版)(15馬力)に敗れる。 10月、イェリネックが、ダイムラーから最初の車両(6馬力)を受け取り、翌年1月には4馬力の車両を受け取る。要望通り時速40㎞ほどのスピードは出るものだったが、レースで戦うにはどちらの車両も性能が不十分だと感じたイェリネックはさらなる高性能車の開発を望み、これが史上初の4気筒車であるダイムラー・フェニックス(ドイツ語版)(24馬力)の開発の端緒となる。その後、イェリネックは1900年までに販売目的に10台単位の注文をダイムラーにするようになり、創業間もない頃の同社にとって重要な顧客となる。 1898年5月24日、ドイツ初の自動車レースとして、ベルリン~ポツダム間を往復するレースが開催される。ダイムラーとベンツが初めて同じレースで競い、両者とも優勝を逃す。 1899年3月、第1回ニース・スピードウィークが開催される。イェリネックがダイムラー・フェニックス(24馬力)を走行させるが、上位には食い込んだものの優勝を手にすることはできず、さらなる高性能車を望む。 ベンツが同社としては初のレース専用車両となるベンツ・8PS(ベンツ・レンワーゲン)を開発する。(→#ベンツ・レンワーゲン)
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