モークリーとの出会い
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「ジョン・アタナソフ」の記事における「モークリーとの出会い」の解説
1940年12月、フィラデルフィアで開かれたアメリカ科学振興協会でジョン・モークリーと出会う。モークリーはそのとき、自身が開発した Harmonic Analyzer の実演を行った。これは気象データを解析するアナログコンピュータである。アタナソフはモークリーに ABC のことを教え、見にくるよう招待した。また、フィラデルフィアへの旅行の際、アタナソフとベリーはワシントンの特許事務所を訪れ、彼らの研究が目新しいものかどうかの調査を依頼した。1941年1月5日、Des Moines Register 紙は ABC を「300 個以上の真空管を使って複雑な方程式を解く電気式計算機械」として紹介した。 1941年6月、モークリーはアタナソフのもとを訪れ、ABC を見学した。4日間の滞在中、アタナソフの家に寝泊りし、ABC について話し合い、動かしてみて、アタナソフの書いた設計書類をつぶさに見た。このときまでモークリーはデジタルコンピュータを提案したことはない。1942年9月、アタナソフはアイオワ州立大学を離れ、ワシントンD.C.にある海軍の研究所(Naval Ordnance Laboratory)の音響部門の主任として働くことになった。彼は ABC の特許出願をアイオワ州立大学の事務官に任せたが、これは実行されなかった。 1943年、モークリーは何度かワシントンD.C.のアタナソフの元を訪れて、アタナソフの計算理論について話し合った。しかしモークリーは、コンピュータ開発プロジェクトに関わっていることを、1944年の初めまで明かさなかった。1945年、アメリカ海軍もジョン・フォン・ノイマンの助言により独自に大規模コンピュータを製作することを決定した。アタナソフはそのプロジェクトの責任者とされ、スタッフ選考のためにENIACでの作業詳細を教えて欲しいとモークリーに頼んだ。しかし、アタナソフは同時に原子爆弾実験のモニタリング用音響システムの設計の責任者でもあり、後者の優先度が高かったため、1946年6月のビキニ環礁での実験から彼が戻ったころ、再度ノイマンの助言があり、海軍のコンピュータ計画は進展がないとして中止された。
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