モークリーとの出会いとは? わかりやすく解説

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モークリーとの出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 03:48 UTC 版)

ジョン・アタナソフ」の記事における「モークリーとの出会い」の解説

1940年12月フィラデルフィア開かれたアメリカ科学振興協会ジョン・モークリー出会う。モークリーはそのとき自身開発した Harmonic Analyzer実演行った。これは気象データ解析するアナログコンピュータである。アタナソフはモークリーに ABC のことを教え、見にくるよう招待したまた、フィラデルフィアへの旅行の際、アタナソフとベリーワシントン特許事務所訪れ、彼らの研究目新しいものかどうか調査依頼した1941年1月5日Des Moines Register 紙は ABC を「300 個以上の真空管使って複雑な方程式を解く電気式計算機械」として紹介した1941年6月、モークリーはアタナソフのもとを訪れ、ABC を見学した4日間の滞在中、アタナソフの家に寝泊りし、ABC について話し合い動かしてみて、アタナソフの書いた設計書類をつぶさに見た。このときまでモークリーはデジタルコンピュータ提案したことはない。1942年9月、アタナソフはアイオワ州立大学離れワシントンD.C.にある海軍研究所Naval Ordnance Laboratory)の音響部門の主任として働くことになった。彼は ABC の特許出願アイオワ州立大学事務官任せたが、これは実行されなかった。 1943年、モークリーは何度ワシントンD.C.のアタナソフの元を訪れて、アタナソフの計算理論について話し合った。しかしモークリーは、コンピュータ開発プロジェクトに関わっていることを、1944年初めまで明かさなかった。1945年アメリカ海軍ジョン・フォン・ノイマン助言により独自に大規模コンピュータ製作することを決定した。アタナソフはそのプロジェクト責任者とされ、スタッフ選考のためにENIACでの作業詳細教えて欲しいとモークリーに頼んだ。しかし、アタナソフは同時に原子爆弾実験モニタリング音響システム設計責任者でもあり、後者優先度高かったため、1946年6月ビキニ環礁での実験から彼が戻ったころ、再度ノイマン助言があり、海軍コンピュータ計画進展がないとして中止された。

※この「モークリーとの出会い」の解説は、「ジョン・アタナソフ」の解説の一部です。
「モークリーとの出会い」を含む「ジョン・アタナソフ」の記事については、「ジョン・アタナソフ」の概要を参照ください。

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