マンリープロモーション、尾木エージェンシー、ネバーランド在籍期(1996年 - 2002年)
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「鈴木早智子」の記事における「マンリープロモーション、尾木エージェンシー、ネバーランド在籍期(1996年 - 2002年)」の解説
Winkの活動停止後は、1996年は、Winkの所属していたP-ARTISTSが改名したものと鈴木がしているマンリープロモーション、1997年頃から尾木エージェンシー、次いで1998年頃からネバーランドに所属。なお、これら3事務所は、住所が同じであり、また尾木エージェンシーとネバーランドの電話番号が同じで、同一性がある。 Wink活動停止後にレコード会社であるポリスターとの契約が終了したため新曲が出せなくなり、暫くは、営業でWinkの楽曲を歌唱するというかたちでの歌手活動はあったものの、映画や舞台、テレビ番組への出演のほか、写真集の発売など、タレントや女優としての活動が芸能活動の中心となっていた。そのさなかである1998年、テレビ東京のリアリティ番組『ASAYAN』の企画「再起に賭ける芸能人オーディション」に、5月31日放送分より出演する。その企画内容は、外資系企業CMタイアップ曲の小室哲哉プロデュース権を賭けて、鈴木を含む「再起に賭ける芸能人」女性たちがニューヨークで共同生活をしながらレッスンを行なうというものであったが、鈴木は、周囲と同調せずに共同生活を拒否したり、他の企画参加者が易々とダンスレッスンをこなす中でレッスンを抜け出し、うまく踊れないこと等につき涙ながらに話したりするなどし、その後、レコード会社から打診を受けたという理由で無断帰国、この企画を離脱しつつも、 企画の前提であった外資系企業のCMタイアップが立ち消えとなった後に、新曲「INNOCENT SKY〜悲しみも届かないあの空の向こうへ〜」を披露する模様などが放送されている。鈴木自身は後に、この番組は、当初より台本があったのみならず、鈴木の与り知らないところで彼女を「悪役」として仕立てる編集がなされていたことなどを述べ、その不当性を述懐した。 同年10月28日、バンダイ・ミュージックエンタテインメントよりWink活動停止後初のソロ・シングル「INNOCENT SKY〜悲しみも届かないあの空の向こうへ〜」を発売。本作の表題曲は『64マリオスタジアム』(テレビ東京系)および『ワイン娘恋物語』(同前)両番組のエンディング・テーマ曲として用いられ、カップリング曲の「PEACE OF MY LIFE」は「バーコード対戦 バーディガン」(タムソフト)CMイメージソングに起用された。また、この年、第1回インターネット歌手ナビ音楽祭で「歌手ナビヒット賞」を受賞している。 この1998年という年はWink結成10周年にあたるが、12月29日放送の『祝!日本レコード大賞40周年記念スペシャル』(TBS系)において、相田翔子とともにWinkとして出演し、「淋しい熱帯魚」を歌唱した。また、翌1999年12月30日放送の『超える!テレビ』(TBS系)においてもWinkとして出演、「愛が止まらない」と「淋しい熱帯魚」を歌唱している。 2000年5月末、バンダイ・ミュージックエンタテインメントが解散したが、その後、ネバーランド在籍中においては、新譜を出すことはなかった。 同年6月、深夜1時過ぎに、首都高速4号線において乗用車を運転中、逆走してきた自動車と衝突、鈴木の乗用していた乗用車は大破し、彼女自身はむち打ち症で3週間ほど入院したが、後遺症は無く、その後もテレビタレントや舞台女優としての仕事を継続する。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}当該時期においては、全体的に、タレントや女優としての活動が主な芸能活動となったが、本懐である歌手としては、1998年にシングルを発売できたものの、鈴木にとって不本意な結果となった『ASAYAN』の出演と、関連性が強いものになってしまった[要出典]。
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