マルタ封鎖
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「マルタ包囲戦 (1798年–1800年)」の記事における「マルタ封鎖」の解説
1799年は包囲を続けるイギリス軍やマルタ人にとってフラストレーションがたまる年となった。イギリス軍は包囲を完遂するため度々大規模な増援を要請していたが、そのたびに却下されていた。地中海のイギリス陸軍を指揮するジェームズ・セント・クレアー=アースキン少将は、ボールによるマルタ包囲よりも、イタリア半島での第二次対仏大同盟戦争とメノルカ島防衛を重視しており、大陸でフランスに敗北を喫したナポリも支援を拒否し続けていた。1月、フョードル・ウシャコフ率いるロシア艦隊が一時的にマルタ沖に現れたが、間もなくロシア・オスマン軍によるコルフ島包囲のため去ってしまった。イギリス・ポルトガル連合軍とマルタ人が食料調達に苦労する一方で、フランス側は1799年前半のうちに何度か包囲を突破して補給物資を搬入することに成功していた。1月、アンコーナから来たスクーナー1隻がヴァレッタに入港した。2月にはトゥーロンから補給物資を積んだフリゲート艦Boudeuseが到着し、包囲網をすり抜けて入港した。5月、エティエンヌ・ユースタシュ・ブリュイ提督率いるフランスの大艦隊が西地中海に進入するに至り、ネルソンはマルタ包囲に参加しているものも含めて地中海に散らばっていた艦隊を集結せざるを得なくなった。この間、フランスは包囲網が薄くなったマルタのヴァレッタに、比較的容易に補給船を送り込むことができた。 しかしこうした度々の補給の成功にもかかわらず、フランス守備隊の食料は急速に底をつき始めていた。物資節約のため、フランス軍はヴァレッタから市民を追い出すことにした。1799年の時点で4万5000人いたヴァレッタの人口は、1800年には9000人まで減った。包囲戦の名目上の司令官はネルソンだったが、実際には国民会議大隊の司令官となったボールが指揮を執っていた。マルタ人の間には食糧難により疫病がはやり始めていたため、ボールはマルタの軍と民兵司令官の連絡網を通じ、補給物資の分配を指示した。その後ボールは自艦アレグザンダーに戻り、主席副官のウィリアム・ハリントンが後を受け継いだ11月1日、ネルソンは改めてフランス守備隊に降伏を勧告したが、ヴァーボワは「我々は、あなた方が我が国に対するようにあなたの国の敬意を得ることを熱望しており、最後まで要塞を守り抜く決意は固い」と返答した。この時、ネルソンはパレルモのナポリ宮廷におり、遠隔の地から包囲戦を指揮していた。しかし彼はこの地でギャンブルや社交に明け暮れ、駐ナポリ大使ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの夫人エマ・ハミルトンと愛人関係になった。こうしたネルソンの行動は、最近セント・ヴィンセント卿から代わった上官のジョージ・エルフィンストーン中将のみならず、トーマス・トラウブリッジら旧友にも非難されるところとなった。トラウブリッジはネルソンに対し、「もし君が友の君に対する感情を理解しているなら、君は必ずや夜のパーティーを止めてくれるだろうと思っている……私は閣下(ネルソン)に、やめるよう懇願しているのだ。」と書き送っている。1799年12月、アースキンに代わり地中海のイギリス陸軍を掌握したヘンリー・エドワード・フォックス中将は、直ちにトマス・グラハム准将率いる800人の部隊をメッシーナからマルタに回した。これは、リスボンへの帰還命令が出ていたポルトガル軍の後を埋める措置だった。一方ヴァレッタ市内では、食料不足にともない疫病が広まり始めた。フランスでブリュメール18日のクーデター(1799年11月9日)が起こり、ナポレオンが第一統領に就任したというニュースは、1800年1月に通報艦が到着したことでようやくマルタの守備隊の知るところとなった。これを受け、ヴァーボワは悪条件下においても決して降伏しないという声明を出した。
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