ネルソンのクルーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 18:20 UTC 版)
「マルタ包囲戦 (1798年–1800年)」の記事における「ネルソンのクルーズ」の解説
4月23日、ネルソンはフードロヤントに乗ってパレルモを出発した。ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンも客人として同乗していた。彼らはシラクサを経由してバレッタに到着した。しかしベリー艦長が船を海岸に寄せすぎて、要塞のフランス守備隊から砲弾が飛んでくる事態となった。弾が船に命中することはなかったが、ネルソンはエマ・ハミルトンを危険にさらしたことで怒り狂い、直ちにベリーに後退を命じた。エマが後甲板からの避難を拒否したことで、ネルソンの怒りはさらに激しくなった。フードロヤントはマルサ・シロッコに錨を下ろし、そこでトラウブリッジとグラハムを主人役としながら、ネルソンとエマは公然と生活を共にしていた。一方古物収集家で外交官のウィリアム・ハミルトンは、もっぱらマルタ島の探検に時間を費やした。6月初旬、ネルソン一行はパレルモに戻り、陸路ヨーロッパを長々と縦断してイギリスに帰った。ネルソンはまたもエルフィンストーンの明確な命令を無視してフードロヤントとアレグザンダーをマルタ封鎖の任務から外し、ナポリ王家がリヴォルノへ向かう際の護衛に充てた。ネルソンの不服従に対するエルフィンストーンの憤激は、「ハミルトン嬢が艦隊を指揮しているのはもうたくさんだ」と公言するほどであった。5月、トラウブリッジがイギリスにもどってジョージ・マーティン海軍大佐と交代し、グラハムもヘンリー・ピゴット陸軍少将と交代した。
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