ネルソンとトラファルガーの海戦
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「ヴィクトリー (戦列艦)」の記事における「ネルソンとトラファルガーの海戦」の解説
詳細は「トラファルガー戦役」を参照 海軍中将ホレーショ・ネルソン提督がその将旗をヴィクトリーに掲げたのは1803年5月18日のことだった。サミュエル・サットンが旗艦艦長を務めた。しかし、ヴィクトリーは航海の準備を完了していなかったため、ネルソンは5月20日にフリゲート艦アンフィオンに移り、指揮官として任じられた地中海へ向けて出発した。ヴィクトリーは少し遅れて、今度はウィリアム・コーンウォリス提督の旗艦となるためウェサン島に向けて出港した。しかし、その必要はないとされ、結局ネルソンの艦隊に合流すべく地中海へ向かった。 5月28日、サットン艦長はロシュフールへ航海途上のフランスの32門フリゲート、アンビュスケードを捕獲した 。その後ヴィクトリーは7月31日にトゥーロンでネルソンと再会した。サットンは、先にネルソンが乗ってきたアンフィオンの艦長に転属となり、トマス・ハーディを艦長としてヴィクトリーは再びネルソンの旗艦となった。 1805年4月4日、ネルソンのもとにフリゲート艦フォーブがピエール・ヴィルヌーヴ提督指揮下のフランス艦隊がトゥーロンを発った、という知らせをもたらした。この時ヴィクトリーはマヨルカ島に付属する小島であるトロ島 (北緯39度27分44秒 東経2度28分18秒 / 北緯39.462307度 東経2.471722度 / 39.462307; 2.471722) 付近にいた。ネルソンはフランス艦隊がエジプトに向かっているのではないかと推測してシチリア島に急行したが、ヴィルヌーヴはカディスに入港してスペイン艦隊と合流しようとした。5月9日今度はフリゲート艦オリンパスがネルソンに、ヴィルヌーヴが約1月前にカディスを出たという情報を運んできた。ネルソン率いるイギリス艦隊はポルトガルのラゴス湾で補給を行い、5月11日に西に向かった17隻からなるヴィルヌーヴのフランス・スペイン連合艦隊の追撃に移った。この追撃に参加したイギリス艦隊は10隻の戦列艦と3隻のフリゲートで構成されていた。しかしこのイギリスの追撃艦隊は6月4日に西インド諸島のバルバドスに到着したものの、すぐにヴィルヌーヴの艦隊がヨーロッパに戻ったことを知った。そして、ナポレオンのイギリス遠征軍がブローニュで待機しており、フランス艦隊の帰着を待っていた。 ヨーロッパに戻ったヴィルヌーヴ提督と麾下のフランス・スペイン連合艦隊は、スペインのビゴーかフェロルに退避しようとしていたが、カルダー提督率いるイギリス艦隊に捕捉された。そして7月22日にフェロル沖で、カルダーの15隻の艦隊と、霧で視界の悪い中、決定的でないフィニステレ岬の海戦を戦った。その後、8月14日にはカルダーの艦隊が、15日にはネルソンの艦隊が、ウェサン島沖にあったコーンウォリスの海峡艦隊に合流し、イギリス側の陣容が整っていった。ネルソン自身は、地中海艦隊をコーンウォリスのもとに残して、ヴィクトリーとともにイギリス本国に帰還した。コーンウォリスは自身の指揮下にあった33隻の戦列艦のうち、20隻をカルダーのもとに送り出し、フェロルにいると見られたフランス・スペイン連合艦隊を捜索させた。8月19日、イギリス側にとって悪い知らせが届いた。フランス・スペイン連合艦隊はフェロルを出港し、2日前に援軍を連れてカディスに入港したというものだった。9月28日水曜日の午後、ネルソンはカディス沖のコリングウッド提督の艦隊に密かに合流した。これはネルソンの存在を気取られないための措置だった。
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