護衛船団の海戦
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「マルタ包囲戦 (1798年–1800年)」の記事における「護衛船団の海戦」の解説
1799年にナポリ帰還を果たしていたナポリ王国政府は、1800年2月初頭にようやくマルタ包囲への参加を承諾した。エルフィンストーンの旗艦HMS クイーン・シャーロットに従う艦隊に1200人のナポリ兵が乗り込み、マルタに上陸した。この後しばらくエルフィンストーンとネルソンはマルタ封鎖艦隊にとどまった。この時点で封鎖艦隊はイギリスの戦列艦6隻、ナポリの戦列艦数隻、両国のフリゲート艦数隻で構成されていた。2月17日、シチリア沖でフランス艦隊の動きを監視していたフリゲート艦HMS サクセス艦長シュルダム・ピアードから、マルタに6,7隻のフランス艦隊が向かっており、それを尾行しているという報告が届いた。このフランス艦隊はトゥーロンからマルタ救援に向かっていたもので、膨大な食糧と3000人の兵を載せていた。ジャン=バティスト・ペレー少将率いる旗艦ジェネリューは、2年前のナイルの海戦で生き残った1隻だった。2月18日、マルタのイギリス艦アレグザンダーの見張りがフランス艦隊を発見した。フリゲート艦サクセスはフランス艦隊を追撃して輸送艦を捕獲した後、格上のジェネリューに攻撃を仕掛けた。サクセスも手痛い反撃を受けたものの、その2回目の片舷斉射でペレーが致命傷を負ったため、ジェネリューは艦速が鈍り、ネルソン率いるHMS フードロヤントとHMS ノーサンバーランドに追いつかれてしまった。圧倒的劣勢に立たされたジェネリューは、降伏した。 ジェネリューが捕獲されて間もなく、エルフィンストーンはクイーン・シャーロットに乗ってイタリア沿岸へ帰った。しかしエルフィンストーンが岸におりている間に火事が起き、彼の旗艦は700人の兵の命と共に失われた。出発する前、エルフィンストーンはネルソンにパレルモへ戻らぬよう、シチリアに帰るとしてもシラクサまでだときつく言いつけていた。しかしネルソンはこの命令を無視して3月下旬までにはパレルモに帰り、公然とエマ・ハミルトンと交際していた。ネルソン不在中はトラウブリッジが封鎖艦隊を指揮し、トラウブリッジはさらに一時的にマンリー・ディクソン大佐に指揮をゆだねた。5月31日、デクレ率いるフランスの戦列艦ギヨーム・テルがマルタの封鎖を突破しヴァレッタに入ろうとした際、マンリー・ディクソンは艦隊を率いて応戦に向かった(1800年3月31日の海戦)。フリゲート艦HMS ペネロピ(ヘンリー・ブラックウッド艦長)に捕捉されたギヨーム・テルは北方へ逃げたが、まずペネロピ、次いでディクソンのHMS ライオンに追いつかれた。ギヨーム・テルはこの2艦を何とか追い返したものの、自身も酷い損傷を負った。間もなく強力なフードロヤント(エドワード・ベリー艦長)が到着し、ギヨーム・テルは絶望的な状態で2時間応戦した末に降伏した。船体はぼろぼろでマストを失っており、戦闘中に200人以上の乗組員が死傷していた。
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