護衛船団の海戦とは? わかりやすく解説

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護衛船団の海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 18:20 UTC 版)

マルタ包囲戦 (1798年–1800年)」の記事における「護衛船団の海戦」の解説

1799年ナポリ帰還果たしていたナポリ王国政府は、1800年2月初頭にようやくマルタ包囲への参加承諾した。エルフィンストーンの旗艦HMS クイーン・シャーロットに従う艦隊1200人のナポリ兵が乗り込みマルタ上陸したこの後しばらくエルフィンストーンとネルソンマルタ封鎖艦隊とどまった。この時点封鎖艦隊はイギリス戦列艦6隻、ナポリ戦列艦数隻、両国フリゲート艦数隻で構成されていた。2月17日シチリア沖でフランス艦隊動き監視していたフリゲート艦HMS サクセス艦長シュルダム・ピアードから、マルタ6,7隻のフランス艦隊向かっており、それを尾行しているという報告届いた。このフランス艦隊トゥーロンからマルタ救援向かっていたもので、膨大な食糧3000人の兵を載せていた。ジャン=バティスト・ペレー少将率い旗艦ジェネリューは、2年前のナイルの海戦生き残った1隻だった。2月18日マルタイギリスアレグザンダー見張りフランス艦隊発見したフリゲート艦サクセスフランス艦隊追撃して輸送艦捕獲した後、格上のジェネリューに攻撃仕掛けたサクセス手痛い反撃受けたものの、その2回目片舷斉射ペレー致命傷負ったため、ジェネリューは艦速が鈍りネルソン率いHMS フードロヤントとHMS ノーサンバーランド追いつかれてしまった。圧倒的劣勢に立たされたジェネリューは、降伏した。 ジェネリューが捕獲され間もなく、エルフィンストーンはクイーン・シャーロット乗ってイタリア沿岸帰った。しかしエルフィンストーンが岸におりている間に火事起き彼の旗艦700人の兵の命と共に失われた出発する前、エルフィンストーンはネルソンパレルモへ戻らぬよう、シチリア帰るとしてもシラクサまでだときつく言いつけていた。しかしネルソンはこの命令無視して3月下旬までにはパレルモ帰り公然とエマ・ハミルトン交際していた。ネルソン不在中はトラウブリッジが封鎖艦隊を指揮し、トラウブリッジはさらに一時的にマンリー・ディクソン大佐指揮ゆだねた5月31日デクレ率いフランス戦列艦ギヨーム・テルがマルタ封鎖突破しヴァレッタ入ろうとした際、マンリー・ディクソンは艦隊率いて応戦向かった1800年3月31日の海戦)。フリゲート艦HMS ペネロピ(ヘンリー・ブラックウッド艦長)に捕捉されたギヨーム・テルは北方逃げたが、まずペネロピ次いでディクソンHMS ライオン追いつかれた。ギヨーム・テルはこの2艦を何とか追い返したものの、自身も酷い損傷負った間もなく強力なフードロヤント(エドワード・ベリー艦長)が到着し、ギヨーム・テルは絶望的な状態で2時間応戦した末に降伏した船体ぼろぼろマスト失っており、戦闘中200人以上の乗組員死傷していた。

※この「護衛船団の海戦」の解説は、「マルタ包囲戦 (1798年–1800年)」の解説の一部です。
「護衛船団の海戦」を含む「マルタ包囲戦 (1798年–1800年)」の記事については、「マルタ包囲戦 (1798年–1800年)」の概要を参照ください。

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