マルタ島からハイゲイト時代
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「サミュエル・テイラー・コールリッジ」の記事における「マルタ島からハイゲイト時代」の解説
やがて阿片の中毒症状が出始め、転地療養のため1804年から1年半、マルタ島の総督書記の職を得て、一時は健康を取り戻すが再度悪化し、イタリアを渡り歩いた末に1806年にロンドンに戻る。残して来た妻との関係も悪化し、所持金も使い果たし、1808年には王立協会から詩の理論についての連続講演を依頼されるが、体調のために半年で打切りとなる。知人に頼った生活の後、1811年からシェークスピアについて17回の講演、1812年に演劇論の講演、翌年にかけて12回の「文学芸術論」講演を行い、続いて自身の演劇論を具体化した「悔恨(Remorse, a Tragedy in Five Acts)」をDruly Lane劇場で上演し、連続28日の当たりをとった。 阿片中毒が進行する中、友人のジェイムズ・ギルマン医師の家で介護されながら、1816年に『クリスタベル、クーブラ・カーン(幻想)、眠りの苦痛(Christabel, Kubla Khan: a Vision, The Pains of Sleep)』の三編を刊行、及び社会・文化評論『政治家の聖典』、1817年に詩集『シビルの詩編』及び『文学的自伝』を出版、また講演活動も継続する。1823年にギルマン一家とともにハイゲイトに引っ越し「ハイゲイトの賢者」と呼ばれ、友人や妻娘の他に多くの名士達もここに訪れた。1828年に全集(全3巻)を刊行。1834年に没し、ハイゲイト墓地に埋葬された。
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