マルタ作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/07 04:53 UTC 版)
「ヨアヒム・ミュンヒェベルク」の記事における「マルタ作戦」の解説
1941年2月からミュンヒェベルクの飛行中隊は地中海戦線に配備されたメッサーシュミット Bf109機を装備した最初の部隊となった。シシリー島を拠点としたこの飛行中隊は1名のパイロットも失うことなくおよそ52機の戦果を挙げ、その部隊規模を考慮すると成功を収めたといえた。この戦果の内約半数はミュンヒェベルク自身のものであった。バルカン半島侵攻作戦支援のユーゴスラビア上空での作戦任務では4月6日にユーゴスラビア軍のホーカー フューリー複葉機を撃墜し、地上にいる別の1機を破壊したと申告した(実際は2機ともアヴィア BH-33機であった)。2月16日にミュンヒェベルクは、第261飛行隊のジェームズ・マクラクラン(James Maclachlan)中尉のホーカー ハリケーン機を撃墜し、マクラクランは重傷を負いつつ脱出し腕を失ったが1943年中に戦闘任務に復帰した。2月26日には第261飛行隊所属の7機撃墜記録を持つマルタのエースパイロットF/O FF Taylorを撃墜し、テイラーは戦死した。 1941年5月に騎士鉄十字章に柏葉とイタリアのMedaglia d'Oroを授与されたミュンヒェベルクはこの時点で43機を撃墜していた。1941年半ばの2カ月間はリビヤでのドイツアフリカ軍団への支援任務に就き、更に5機を撃墜した。 8月にJG 26/第7飛行中隊はフランスに戻り、ミュンヒェベルクは1942年6月までに更に35機(内34機はスピットファイア機)を撃墜した。4月29日にミュンヒェベルクに撃墜され戦死したのはポーランド第1戦闘航空団(1st Polish Fighter Wing)の航空団長でポーランド人エースパイロットのマリアン・ピザレックだった可能性がある。9月19日にミュンヒェベルクは大尉に昇進し、JG 26/第II飛行隊の飛行隊長に就任した。
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