マルタ人の反乱
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「マルタ包囲戦 (1798年–1800年)」の記事における「マルタ人の反乱」の解説
マルタでは、フランス当局が急速に聖ヨハネ騎士団時代の制度を撤廃していた。カトリック教会もその被害を受けた。教会の財産はフランス軍のエジプト遠征費用に充てるため略奪され、敬虔なマルタ人の怒りを買った。9月2日、教会財産が競売にかけられるにいたりマルタ人の不満が爆発した。数日のうちに数千人のマルタ人非正規兵が集結して、フランス守備隊をヴァレッタへ追い込んだ。エマヌエーレ・ヴィターレとフランチェスコ・サヴェリオ・カルアナ率いるマルタ人組織「国民会議大隊」は約1万人に膨れ上がり、ヴァレッタを包囲した。このマルタ人たちは23門の大砲と沿岸の砲艦の小艦隊をフランス軍から奪った。フランス守備隊とマルタ人は断続的に小競り合いを繰り返したものの、要塞群はあまりにも頑強でマルタ民兵の手に負えなかった。 9月中旬、反乱に味方するポルトガル艦隊がマルタ島にやってきた。ニザ侯爵ドミンゴス・ザビエル・デ・リマ率いるこの艦隊の内訳は、戦列艦ダ・コンセイサン (大砲90門、ピュイセギュール艦長)、ライーニャ・ダ・プルトゥガル (大砲74門、トマス・ストーン艦長)、サン・セバスティアン (大砲74門、ミッチェル艦長)、アフォンソ・デ・アルブケルケ (大砲74門、ドナルド・キャンベル艦長)、ブリッグ艦 Falcão (大砲24門、ダンカン艦長)となっている。またこの艦隊には、イギリス海軍から戦列艦HMS ライオン(マンリー・ディクソン艦長)と火船HMS インセンダイアリー (ジョージ・ベイカー艦長)が合流していた。このポルトガル艦隊は、ネルソンの要請によりポルトガル政府がテージョから派遣してきたものだった。艦隊はマルタにいったん停泊した後、アレクサンドリアへ向かった。ネルソンはこれをマルタに送り返し、フランス守備隊の封鎖にあたらせた。 9月下旬、ジェームズ・ソーマレズ大佐率いるぼろぼろのイギリス艦隊13隻がマルタ島に到着した。これはナイルの海戦で損傷した諸艦で緊急修理を必要としており、包囲戦を直接支援することはできない状態だった。しかしソーマレズは9月25日にマルタ人の代表と面会し、次いで彼らの代理としてフランス守備隊のヴァーボワに休戦を持ち掛けに行った。対するヴァーボワは「あなたはフランスがこの地を保持していることを忘れておられるようだ。住民たちの運命はあなたとは無関係だ。あなたの最終通告にしたって、フランス戦士たちはそんなスタイルには慣れていないのだ」と返答した。フランス軍への降伏勧告が不首尾に終わると、ソーマレズは代わりにマルタ人勢力に1200丁のマスケット銃を提供し包囲を続けさせた。ソーマレズ艦隊もこれ以上修理を遅らせるわけにはいかなかったため、月末までにジブラルタルへ去っていった。 10月12日、イギリスの戦列艦HMS アレグザンダー(アレクサンダー・ボール艦長)、HMS カローデン(トーマス・トラウブリッジ艦長)、HMS コロッサス(ジョージ・マレー艦長)がニザ侯の艦隊に合流し、封鎖が完成した。同日、ヴァーボワはヴァレッタ新市街から最後の守備隊を引き上げた。この時フランス軍への参加を希望した約100人のマルタ人民兵も同行した。この時点でフランス守備隊は3000人以上を数え、物資も潤沢だった。またフランス陣営には、聖ヨハネ騎士団から接収した戦列艦デゴ、アテニエン、フリゲート艦Carthaginoiseに加え、ナイルの海戦で生き残り9月末にマルタに帰ってきたピエール・ヴィルヌーヴ少将率いる戦列艦ギヨーム・テル、フリゲート艦ジュスティス、ディアヌからなる艦隊も駐留していた。
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