マツの来歴と伐採まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 06:04 UTC 版)
愛媛県は県庁所在地である松山市の名が示すとおり、マツにゆかりの深い県である。愛媛県が1966年(昭和41年)9月9日に制定した「県の木」も、マツである。1965年(昭和40年)頃は、愛媛県が指定していた天然記念物のマツは18本存在し、国指定であるこの与力マツを含めると19本を数えた。 与力マツは、松山市立小野小学校の中庭に生育していた。『天然記念物事典』(1981年発行第五刷)によると、根回りは6.50メートル、目通り5.30メートル、高さ34メートルを測り、枝張りは東西に約27メートル、南北の方向に約22.50メートルあった。地上7メートルのところで東西の方向で2本の大枝が分岐し、その大枝はともに地上約9メートルのところから多数の枝を垂らしていた。垂らされた枝の枝張りは、東西に約30メートル、南北の方向に約23メートルに及んだ。推定の樹齢は、1000年と伝えられていた。 与力マツという名称については、かつてこの地が「与力」という地名であったためとも、木の下に与力の住まいがあったためともいわれる。1331年(元弘元年)に元弘の乱が起こると、土居通増や得能通綱らが後醍醐天皇側についてこの木の下に集まって挙兵し、長門探題北条時直の軍を星の岡に敗走させたという伝説があった。与力マツは江戸時代には、「御帳付の松」として保護され、触れることを禁じられていた。 この木は道後平野におけるマツの独立木としてよく目立つ木であり、小学校の中庭にあるため地元の人々や小学校の卒業生などの心の支えとなっていた。1919年(大正8年)に与力マツの「友マツ」であった平井のかぶと松が枯死したため、人々はマツを愛護しようと協力して大松保存会を結成した。1948年(昭和23年)12月18日に国の天然記念物に指定され、俳人松根東洋城はこの木を称えて「うららかや昔てふ松の千歳てふ」で始まる「与力松調詠」20句を詠んだ。与力マツの下には、「うららかや」の句を刻んだ句碑が1949年(昭和24年)4月29日に建てられた。 大松保存会は与力松保護顕彰会と改称して保護活動を続けることになった。保護顕彰会はこの木を守るため、周囲に石垣や石柵をめぐらせて人の立ち入りを禁止したり、鉄柱で枝を支えたりするなど懸命の活動を続けていた。しかし度重なる台風の害で樹勢を損ね、枝も半分以下になった上に、1970年(昭和45年)8月の台風では主幹までが折損した。松くい虫の被害にも遭って消毒などを実施したものの、ついに枯死して1981年(昭和56年)12月13日に小学校の児童たちや地元の人々が見守る中で伐採され、天然記念物も指定解除となった。
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