マズダク教の運動とカワード1世の廃位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:03 UTC 版)
「カワード1世」の記事における「マズダク教の運動とカワード1世の廃位」の解説
スフラの処刑から間もなく、マズダクという名のゾロアスター教の司祭がカワード1世の注目を引いた。マズダクは、マズダク教と呼ばれる宗教的および哲学的運動の代表者であった。その教えは神学的な内容のみで成り立っていたわけではなく、貴族や聖職者に影響を及ぼす政治的および社会的改革をも提唱していた。マズダクの運動は、暴力に反対し、古典的な共産主義の形態ともいうべき富、女性、そして財産の共有を求めていた。このうち女性の共有に関する言い伝えは、現代の歴史家であるトゥーラジ・ダルヤーイー(英語版)とマシュー・カネパによれば、ほぼ確実に下層階級の人々を救うために婚姻に関する慣習から解放しようとしたマズダクの布告を誇張し、中傷するためのものであったとしている。有力な一族は、マズダクの運動を自らに対する血統と優位性を弱めるための方策と見なし、実際にほぼ間違いなくその通りであった。カワード1世はこの運動を貴族や聖職者の力を抑制するための政治的手段として利用した。王の支援を受けた穀倉が各地に広まり、土地は下層階級の人々の間で共有された。 しかしながら、マズダクの役割の史実性については疑問視されている。マズダクの存在はカワード1世から非難の矛先をかわすための作り話であった可能性がある。プロコピオスや登塔者ジョシュア(英語版)を含む同時代の歴史家は、その運動の背後にある人物としてカワード1世の名を挙げ、マズダクについては何も言及していない。マズダクについての言及は、後の中期ペルシア語によるゾロアスター教の文献では『ブンダヒシュン』、『デーンカルド』および『ザンディー・ワフマン・ヤスン(英語版)』にのみ現れている。イスラム時代の文献では、特にタバリーの著作においてマズダクについて触れられている。これらの後世の著作は、マズダクが貴族の財産を下層民に再分配したことに対する非難がペルシアの口承の歴史の中で繰り返されてきたため、おそらくこれらの民間伝承の影響による誤りを含んでいる。ペルシアの歴史における他の「悪役」、すなわちアケメネス朝の支配者ダレイオス1世(在位:紀元前522年 - 紀元前486年)のベヒストゥン碑文におけるガウマータ、そしてサーサーン朝の王ナルセ(在位:293年 - 302年)のパイクリ碑文(英語版)におけるワフナーム(英語版)も似たような悪事を行ったとしてしばしば非難されている。 496年、この運動の背後にいた主要人物が誰であったかには関係なく、カワード1世は貴族の手によって退位させられた。貴族たちはより制御しやすいとみられていたカワード1世の兄弟のジャーマースプを王位に据えた。カワード1世の退位の背後にある他の理由の一つは、カワード1世によるスフラの処刑にあった。一方では国内、特にメソポタミアにおいて大きな混乱が発生していた。
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